OSK日本歌劇団 『レビュー 春のおどり』

 「客席にいる皆様にも、私たちにも、つまずいたり、落ち込んだり、それ以上に笑ったり、何気ない日常の中にかけがえのない人生のドラマがあるはずです」パンフレットから顔を上げて富士山の緞帳を見る。じんわり来るこれ。このトップスター(桐生麻耶=きりゅうあさや)の言葉を読んでちょっとうるっときているのだった。苦労してるやん。と、いきなり心を開く。今まで、見たこともなかった劇団だったのにね。OSK日本歌劇団は、調べると山あり谷ありで、一度は解散している。大変だったことがいい感じにこの挨拶に滲んでいるのだ。それはレビューが始まってからも同じだ。華やかで、設えられた桜の造花のひとつひとつが桜花の小さな爆竹のように威勢よく美しく感じられ、団員の振り付けの仕草の端々まで脈打って瑞々しい。舞台上の団員の視線が全員一丸なのに別々で、一人一人の影を負い、それぞれの光を放つ。この陰翳、この厚みがレビューという物の大事な要素だなと思った。

 なにより、初日の今日、桐生麻耶を筆頭に、舞台の後ろ隅に位置する団員まで、激しい気力が漲っていた。激しい余りに、声が十全でなかったり、難所で音を外す局面もある(惜しいっ)のだが、何だかそのキズから血が出そう。レビューは「生身」なんだという気がした。有機物のように生きているのだ。

 桐生麻耶を要とする舞扇の舞に始まり、絢爛豪華に踊りは続く。従来通りのラインダンス(みな、かわるがわる長く、長く足を上げ続ける!)に女の人にも受けるよう工夫を凝らしているし、ヴィヴァルディにはコンテンポラリーダンスの匂いがする。そして一番大切なことは、すべてが観客に「開かれて」いて、難しくないってところだ。「劇団」というより、かっこいい「桐生麻耶とその一党」と呼ぶのが似つかわしい、すばらしい、豪奢なレビューだった。

劇団俳優座 第338回公演 『血のように真っ赤な夕陽』

 ごめん。前半紙芝居。それはたぶん、調べたことを、誠実に組み立てたせいだと思う。予想外のことは一つも起こらず、後半の開拓団の主婦池田好子(平田朝音)の卓袱台返しのような発言で芝居が緊迫するまで、事実の羅列をじっと辛抱する。この緊迫に至るまでの間に、たとえどんな小さなエピソードでもいい、好子の歴史、彼女の「感じ」を伝える微視的な観点が必要だった。それは彼女の卓袱台返しを支える何かだ。歴史って、大きいのもあるけど、小さいのもあるでしょ。小さい歴史が不足。

 古川健は私が背負って遊ばせていた親類の子と同い年なのだ、と思うとがんばったなと感心するが、作家として(ことに『治天の君』の作者として)みると、これまだ全然だ。絶滅収容所で自殺しようとする人を止めようとして、「自殺したら明日自分がどうなるのかわからなくなる」といったユダヤ人女性の話みたいなぎりぎりなとこや、『ヒトラー最期の12日間』のような仮借ない態度が少しあれば、最後の歌がもっと効く。いいよね、最後。

 俳優座の俳優たちは台詞のコントロールが完璧、この芝居このままラジオドラマで使える。けれど身体全部が台詞をコントロールするために機能していて、体の実感と乖離している。身体に佇まいがない。わずかに岩崎加根子の芝居が、節の高くなった黒い手、激しい労働をしてきた身体などをさらりとイメージさせる。

 下手に赤く見える煉瓦に支えられた粗末な戸、上手に闇の中に消えていく戸があって、陽の中から闇が浮き上がってくる。このセットに芝居ちょっと負けてるかな。

俳優座、若い人向きの芝居なのに、若い人全く来ていないのどういうこと?ぐずぐずしてると悪貨に(お涙頂戴の戦死ウェルカムもの)に駆逐されちゃうよ。

東京ヒューリックホール 『PHANTOM WORDS』

 「あんた誰だっけ」第2幕冒頭、4時間の芝居を半分見たところで、心に呟いている。

 中国の秦王朝が滅び、漢が勃興するあたり、沛の街の威勢のいいあんちゃんの劉邦花村想太)を中心とする芝居なのだが、たった今、2500円のぺっらぺらの(表紙いれて14葉)パンフレットを見て、軍師雛罌粟(生駒里奈)の語る終わりの言葉、「その言葉に抗った者だけが天下を取れる」という、この芝居の肝を知りました。

 登場人物は多く、全員が一本芝居を背負えるハンサムばかりだ。張良(鈴木勝吾)、蕭何(安西慎太郎)、章邯(畠山遼)、陳勝高橋良輔)、子嬰(松本ひなた)、英布(君沢ユウキ)、樊噲(村田洋二郎)、項梁(萩野嵩)、項羽山本涼介)、韓信谷口賢志)。一回の観劇では到底把握できない。芝居の筋も不親切だ。つまり、この芝居はあの厭な言葉、「リピる」のを前提に作られている。全てのハンサムがゆっくりしたいいシーン、いい台詞を喋り、続いて激しい殺陣、ゆっくりしたシーンという単調な繰り返しが続く。新感線にものすごく似てるけれど、中島かずきは絶対に「秦の兵が大手を振って狙うほどの男じゃありませんよ」、「野(の)に下る」、「天下に出る」という間違った言葉は使わない。後ろのホリゾントに台詞が出るのなら、田中良子はあんな大仰な芝居はしなくても済んだはずだ。ハンサムが出ることでいい面もある。簡単な説明で韓信と雛罌粟の心のあやが納得できる。逆に言うと、作家は成長しない。

 宦官の李斯(長友光宏)が、太った体を揺らし、介添えを受けてゆっくりと階段を下りる。中国語の台詞を話し始めるところ、ぞくぞくした。異物として登場するため「たっぷり」した死が与えられず、そこもよかった。子嬰が泣き崩れるのもいい。呂雉(楠田亜衣奈)の扱いが雑、槍を何度も死体に突き刺して笑いを取るの最低。

東京芸術劇場プレイハウス 森新太郎チェーホフシリーズ第一弾 『プラトーノフ』

「うわっひどい男、でも、」と私は必ず付け足すのだった、

チェーホフほどじゃない。」

 失恋の友達を慰めながら、なんでそんなにチェーホフひどい奴だって思っていたんだろあたし。ハンサムでかしこくて世を蓋う天才で、手紙とかやたら出すくせに、肝心のことは言わないからかな。ざんこくですよねこの人。

 チェーホフ18才の作品『プラトーノフ』は多分、ハムレットが「現代ロシア」で「主人公」だったらという観点から描かれたか、整理されたかの戯曲だ。そして、バイロン卿の数々の恋愛沙汰にインスパイアされている。ロシアのハムレット、ロシアのバイロン卿、もし彼が今ここにいて、生きるとしたら?きっと彼は作品を書かないだろう、恋愛するしかないだろう、退屈し、絶望し、復讐するべき父の仇もなく、後年のチェーホフのあのうっすらした100年後への希望もない。

 舞台中央に巨大な「蝕」を思わせる環が吊るされている。夜目のきく猫の目のように見えたり、息苦しい世界の空に開いた穴に見えたり、井戸に見えたり銃口に見えたり、行けども行けどもぐるぐる回りの薄い環(その上に儚い人々の生活が載っている)に見えたり、あれこれ、この世界の展望のなさを象徴する。

 そんなことより、森新太郎、どうした。藤原竜也に椅子ぶっ飛ばされたくらいでびびるんじゃない。椅子を投げる藤原竜也の苛立ちもわかる。2幕の学校のシーン、長すぎて、「保たない」。あの姿のプラトーノフに飽きる。演出にもう一工夫必要だ。

 藤原竜也、首と鎖骨あたりに力が入って、人のセリフ聴けてないよ。足の裏で息してみたら?

 比嘉愛未、「何をすべきか言ってやって」の所だけ乱れた方がいい。

新橋演舞場 『トリッパー遊園地』

 『ウィンストン・チャーチル/世界をヒトラーから救った男』(2017)を観ると、世界のあまりの単純さに目を疑うようなシーンがいくつも出てくる。徹底抗戦を叫ぶ地下鉄の乗客たち、その名をメモして演説に使うチャーチル、作戦はうまくいき、ダンケルクのイギリス将兵は救われ、一方でおとりのカレー守備隊は壊滅する。

 我々は決して降伏しないというチャーチル同様、敗色が濃く、兵隊は飢え死にし、軍自身が民間人を見捨てた帝国陸軍もまた、決して負けを認めようとしなかった。ジョー・ライトの世界観はとてもシンプルだが、それに負けず劣らず、というか完全に勝っているシンプルさで、『トリッパー遊園地』は作られている。

 たとえば遊園地の観覧車の鉄が、「徴収(集)」されると登場人物は言う。それは昭和18年の金属類回収令のことだろうか。人々はそれを「供出」と呼んでいたはずだ。この「徴収(集)」という言葉は、作者が為政者にとても近く、同化した立場で作品を作り、かつ、あまり調べもしていないことを表わしている。上から見た戦争は、ロマンチックで、恣意的で、好きなように「悲劇」を摘み取って美化し、話のタネにできる。男女関係だけ都合よく現代だ。ご都合主義というのだろうか。

 作者の思い(みんなに見守られ、ロマンチックに、悲劇的に、誰かのために、死にたい)を代表して、ショウヘイ(辰巳雄大)は「花道」を通って死に就く。辰巳雄大がいい芝居をすればするほど、独りよがりの、暗に人に死ね死ね言う嫌な話になっていく。ここがこの芝居のほんとうの悲劇だ。

 芝居に関係なく、河合郁人辰巳雄大が白と黒のスーツで踊るシーンがいい。子役指導のテディくまだはきっちり仕事をしている。

ビルボードライブ東京 ダン・ペン&スプーナー・オールダム

 一階平場へ降りて、ステージを見ながら上手(右)から下手(左)に歩いてみたが、何の変哲もなく、しずーかにギター(素人目には普通のギター)がスタンドに立てられ、華奢な電子ピアノに楽譜が開かれているだけで、何も視界に引っかかってこない。つー、と通り過ぎた。最小限の楽器に、ちょっと、ほんのちょっと教会みたいな感じが漂う。ステージに青い明りがつき、外の夜のビルと、会場のざわめきが重なる。舞台のチェックに来たスタッフの女の人が、ギターのチューニングを確かめているが、えーさわっていいのというくらい、尊さをステージが醸し出している。

 紹介の人がラフな感じで、「ダン・ペン&スプーナー・オールダム」といい、二人が舞台に上がった。ダン・ペンは77歳、スプーナー・オールダムは75歳だ。肩を組んで客席にあいさつする。

 「マッスル・ショールズで…」「マッスル・ショールズの…」というフレーズをよく聞くけれど、マッスル・ショールズというのはアラバマ州の地名で、音楽の人が言う時は、「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ」という施設と、そこで生まれた音楽のことを指している。詳しくは『黄金のメロディー~マッスル・ショールズ~』という映画をごらんください。

 ダン・ペンはこのマッスル・ショールズやメンフィスで活躍するソング・ライターでプロデューサーで、もちろん歌も歌う。スプーナー・オールダムもマッスル・ショールズのミュージシャンで、アレサ・フランクリンの「貴方だけを愛して」の冒頭の印象的な電子ピアノなどを弾いている人だ。

 向かって右に座ったダン・ペンは、まず滑り止め(?)のパウダーを手に振りかける。そしてゆっくりギターを抱え、コードを試すように弾き、歌い始める。「I’m Your Puppet」。いい声だ。CDのまま。ぽろりんと聴こえるスプーナー・オールダムの電子ピアノがきれい。童話のよう。電子ピアノの下から覗く足に、黒地にオレンジラインの鋭く入ったスニーカーを履いている。

 若い時、わたしこの歌大嫌いだったのである。なんだ、僕は君の操り人形って。といらいらしていた。今思えば、好きな女の人のいいなりになってしまう男の、哀しみみたいなのにイラついていたんだねたぶん。哀しみいつまでも続かないでしょう!すぐ憎しみに変わるやん!というような気持と、その哀しさに申し訳ないという気持ちが、相争っていたんだろうねぇ。今はいい歌だとわかります。

 2曲目は「Sweet Inspiration」、70代のダン・ペン&スプーナー・オールダムは、すこし違うことを考えているように、八分くらいの力と集中で歌い、演奏する。すると電子ピアノやギターや声が、自然に生きて、それぞれ呼吸しているように聴こえる。

 「みんな、ボックス・トップスを知っているかい?」と鼻歌のようにつぶやくように歌い始めたのは、ダン・ペンがプロデュースした60年代後半のメンフィスのバンド、ボックス・トップスの「The Letter」。会場の伴奏のような力のこもった拍手で、ギターも弾かず歌い終える。小瓶のビールをちょっと飲み、たぶん、なかなか曲が思い浮かばず、レコーディングが難渋した「Cry Like a Baby」の話をしている。なんというか、このダン・ペンの話も味があって、話が曲の一部に聴こえてきて、空間全部が味わい深い。たとえば、ダン・ペンが、「Well,Spooner?」と話しかけるのもいい感じで、なんでもなくて淡々としていて、繊細だ。朝の4時にひらめいた「Cry Like a Baby」をうたう。そして、「Do Right Woman,Do Right Man」。ダン・ペン&スプーナー・オールダムは、最盛期の歌の残骸を演奏しているのではない。歌が「いま」生きている。生き生きした老年の男の歌なのだ。確かに高音はとても気を付けて出しているが、しっかり構築された曲の、若い時と同じコードの、違う並びに光が当たる。建物は同じでも光線が変わったのだ。

 男の人が、女から受けたたった今の赤い血の出る傷、覆い隠せないたった今の真実をダン・ペンは歌う。この正直さが稀有。そして、歌の端っこまでしみじみ意味(こころ)がこもってる。曲名がわからないけど、後半の「I’m coming home,Wait for me honey」と歌う歌なんて、歌の中の男の帰ろうという気持ちが現在形で伝わる。「Nobody’s Fool」もよかった。ダン・ペンもうまく歌えて満足そうだったし、「Nobody’s fool」というフレーズの音の塊からしてかっこいいのだ。人間国宝だなこの人たち、と話しながら家に帰った。とてもデリケートな音楽だった。

彩の国さいたま芸術劇場 彩の国シェイクスピア・シリーズ第34弾 『ヘンリー五世』

 吉田鋼太郎の演出って不思議だ、車のハンドルの「あそび」のように、余裕が芝居のキズを吸い込む。キズが魅力に見える。「あっ、そこ取っちゃうの?」という吃驚も、芝居の輝きを増す。「そこ取っちゃった」の驚きました。「ない」ことで「ある」のが際立ち、同時に「そこじゃない」こと、ハル=ヘンリー(松坂桃李)の成長物語であることがはっきりする。客席に入るとそこは暗く、スモークが焚かれ、函の内部にいる気持ちが迫ってくる。事実、ここは函、コーラス(吉田鋼太郎)に案内されて、英仏海峡を越え時空を越える。吉田鋼太郎の説明は観客を引きつけ、皆楽しく旅に臨む。

 映像がなー。「3Dにしてよ」とすぐ思うのだが、それって芝居だよね。冒頭のヘンリー、黒いマントが板につかず、王なのに左右に首を振って諸卿を見渡すのは、まだ王とは言えないからだろう。問題はバードルフ(岩倉弘樹)の処刑前、首を垂れてうつむくシーンだ。ここ、王ならば背を向けるはずだが、ハルはまだ「成人」してないからうつむく。「うつむく動作を立てる」。ずっとうつむきすぎ。

 ウィリアムズ(續木淳平)素晴らしい。野営の王とのやり取り、もすこしがんばって。一兵士らしく。ここ大事。王が成長する。

 フランス皇太子(溝端淳平)、眉をひそめてボールを投げてる所いい。全てが伝わる。従者(山田隼平)のボールの受けっぷりもいい。フランス宮廷のシーンで溝端はきちんと感情をつなげそこにいるが、もすこし芝居の明度下げて。つまり、おなかの中で芝居する。そうじゃないと皆溝端さん見ちゃうからね。キャサリン(宮崎夢子)の台詞から「首」「顎」と「上着」取っちゃったの?「死」と「セックス」をイギリスがもたらすって意味じゃないあれ?ちがうの?一回目のシャコンヌめっちゃまずい、意味不明。フルエリン(河内大和)の訛りがよく分からない。個人の属性?