赤坂レッドシアター T-WORKS#3 『愛する母、マリの肖像』

 勇者。古川健が母と娘の関係につっこんできた。

 ねぇねぇ、仲よさそうに見えても、母と娘は大変なんだよー。母が「なんてすごいヒールなの」と言い、娘が「これくらい普通よ」と返したとしても、娘の心の手帳には裏抜けするくらい濃い文字で「呪われた。」と書いてある可能性がある。そこんとこ無視して作劇してる。お父さんのことを口に出しちゃだめなのも、結構ひどいのにスーッと通り過ぎる。一見甘くてありふれた着地点を設けるにしても、中身はもっと癖が強くて暴れてないと。イレーヌ(丹下真寿美)とエーヴ(佐藤聖羅)はコムデギャルソンとディオールくらい違う。そのことが芝居に全然現れてない。その母マリ・キュリー(山像かおり)だって、全体通してどういう女だったのかさっぱりわからない。庇髪に結ってるのが気になっちゃって、話がなかなか入ってこない。3人ともそれぞれ、堂々たる個性を持った「女丈夫」なのに、チェーホフの三人姉妹みたいになっている。キャラがちっちゃい。ミニ。最後の「ラジウム」を効かせるために。つまり、「話」はどうでもいいのかも。

台詞以上のことがなかなか起きない。さらさらしている。退屈。

 キュリー夫妻の友人ダニエル(辰巳琢郎)の存在が疑問。登場時、明らかに泣いていたという目を辰巳琢郎はしており、ここはいい。しかし、台詞がいちいち軽い。架空の人というよりいない人のようだ。この人いないんだ。最後の「く…」と顔を伏せて泣くシーンは、「泣いてます」と周りの人と観客に言ってるだけで決して泣いてない。あり得ない。前から二列目で凝然とした。ちゃんと心の窓を開けて(すんごい深読みした)自分の中に落とし込んでほしい。それともあれは、いないからなの?

 舞台が洞窟に作ってあるけど、芝居のどこにも洞窟も、「ラジウム」の得体のしれなさも、感じなかった。辰巳琢郎、がんばって。

アマゾンプライム 『マスカレード・ホテル』

 さんまが見つからん。手持ちのタブレットなんかでこじんまり観るからである。大きい画面で観なおすと、た易く彼は現れ、あっさりした大団円に拍子抜けしてもう一度頭から映画を辿る。

 こんなもんじゃなかろー。

 もっと大きい謎々が仕組まれているはず。何かあるはず。例えば指でピースマークを作ったら、勿論指は2本見えるけど、ゆっくり手首を返すと指の位置が重なって1本に見える的な。と焦りながら3回観るが何もない。

 こんなもんだった。謎々なかった。うなだれて電源を落とし、こんなゆるい作品で懸命に働いた役者の人々のことを考える。特に木村拓哉。連続殺人を追う刑事たちが高級ホテルに潜入し、犯人を追う。その一人新田を演じる木村は、どんなひどい台詞も、シチュエーションも、絶対にスルーせず、ラケットをぎりぎりまで伸ばして拾い、「ださくない所」「ベタじゃない所」に打ち返す。ださくベタなこの映画は、実は木村に救われている。老婆の打ち明け話や新田の指導係フロントクラークの山岸(長澤まさみ)の思い出話など、テレビでは許されても『1917』と同じ料金を取る映画では決して許されない処理でありしんみり度である。処理と言えばペーパーウェイトはテレビならではのしつこさで、唯一笑える箇所の散髪シーンは画面のテンポが恐ろしく悪く全く笑えない。さいご、ホテル前にスーツで立つ新田の靴がぴかぴか、っていうのと宇梶剛士の写真がかわいかった。生瀬勝久がホテルの窓から外を眺める一瞬の喜び、小日向文世が客室のソファの背を撫でるところが素晴らしい。木村拓哉、どんなダサいものでも打って「センスある普通」にできることは分かった。自分の好きな色のシャトルでサーブする練習しないと。それは怖いよ。長澤まさみはこのキムタクのセンスをみよ。

Pカンパニー 『京河原町四条上ル近江屋二階――夢、幕末青年の。』

 京都だねーと、なぜか一見してわかる二重を組んだ舞台、階段に明かりがあたっている辺りを見るとどうやら赤いみたい。天井のサスにも赤い色が反射しているもん。それが京の橋と血塗られた幕末をすぐイメージさせる。二重の台は高さが揃っていて、死んだ人たちのように重なり合っているのだ。功山寺(山口)にある万骨塔を思い出した。主に明治まで生きなかった志士の名を刻む、悔恨と憤懣のこもる塔である。赤い二重の奥に、語られないそれがうずくまっているような気がする。この装置、いろんなことを思わせるのにとてもシンプルでいいです。

 ところが。客席上手のドアから登場する女(案内役、木村万理)とその連れの髭(森源次郎)の衣装がひどい。案内役は臙脂のレザージャケットにジーンズ(ぴたぴた)にヒール、髭はやっぱりレザージャケットに拾って嵌めたようなストーンズのあのマークがついている。ぜーんぜん感情移入できないし、どの位相にいる人なのか、いやそもそも現実にいるタイプとは思われない。しかし話はどんどん進んでしまう。待ってー。「伯父貴」この言葉、今息してる?

 案内役とともに中岡慎太郎(林次樹)の過去に飛び、襲撃者の若者(松田健太郎)のつましい家庭を見せ、二重を積み上げていくようにあの近江屋二階の高みに到達する。「人間は利得でしか動かん」「約束は破った時から嘘になる」軽い感じの作劇かと思ったら、この二つの台詞がとても重い。ひっそり控える悔恨と憤懣が、身じろぎしたような気がした。一シーンごとのつながり、方向性が鈍く、てっぺんの近江屋、そして、その上で踊る人々の所まで行きつけない。中岡、実物と似てないけどよかった。中学の時、図書館にあった唯一の戯曲が『真田風雲録』だった。今日はその作家の芝居を観ることができて、感想文を書いた。

吉祥寺オデヲン 『1917 命をかけた伝令 』

 知もあれば勇もある、情け深くて面白い、源平合戦の登場人物を、あっさり戦斗で死なせてしまった作家がいた。後々になって作家は言う、「あれを死なせるのではなかった。」物語はその人が生きてた方が数倍面白かったはずだけど、彼はどうしたことか生き長らえない。私は作家本人に教えてやりたくてうずうずする。戦争ってさ、誰でも等しく、ふとむなしく死ぬところだよね。あの戦記物書いたとき、貴方はそのことを理解していたのに。

 黄色い花の咲く野原を後に、カメラはなめらかに手前に下がり、休息を取る兵士たちや洗濯場から入り組んだ塹壕へと(進むにつれて壕は高く、古くなる)入っていき、二人の若者(ジョージ・マッケイ、ディーン=チャールズ・チャップマン)を見えないアリアドネの招く暗がりに落とし込む。将軍の命令を受け、1600人の兵士の無駄な攻撃を中止するため、前線を通って、伝令をつとめるのだ。『1917』、すんごい面白かったけど、私何回も途中死にかけた。有刺鉄線の中で、或いは狙撃のために、転んだために、敵と出くわしたために、何度も何度も私は死ぬ。登場人物の何倍も死ぬ。(よくまあこんな戦場で足が前に出るもんだなあ)とビビりながら画面に見入り、映画の始まりは神経がそそけ立って、うまく映画と同期できない。しかし、段々に目が慣れ、戦場に抵抗力がついたところで、意外な人物が「ふと」死んでしまう。わかってるなー。ワンカット撮影は、「ふと」死んでしまった「私」たちの視線であるような気もした。主人公はカンバーバッチでもコリン・ファースでもない、普通の若い者だ。彼は偶然に選ばれて戦場の迷宮から生きて出る。入った時とは別人になって。…と私は思ったんだけど、パンフレットでちょっと、疑問になった。サム・メンデス、『リーマン・トリロジー』も、これも、「糸」「綱」がモチーフ?多くない?

渋谷HUMAXシネマ 『グッドバイ 〜嘘からはじまる人生喜劇〜 』

 小池栄子優勝。小池栄子がテープを切らんとするその瞬間まで、隣を大泉洋が顎を振ってちらちら小池を見ながら力走する。

 扁平の麦わら帽をかぶり、オレンジ赤のワンピースを着て路地を歩いてくるキヌ子(小池栄子)の美しさ。映画「おてんば娘の大冒険」の画面に見惚れるその口元に、無邪気な白い歯が真珠のように並んでいる。「損させないってほんと」と目はきらきらひかり、箪笥を持ち上げた時には素晴らしいと思った。助演の女優もいい。日本の女優はきっちり仕事できるのに、「させてもらえてない」と感じた。少し猫背の「夢二体型」を「すてき」ではなく「怖い」と思わせる緒川たまき、しゃっきりしている水川あさみ、訛りの浮かない木村多江橋本愛は愛人の中で、ひときわ美しく撮れてないし、台詞が硬い。青いターバンが似合ってない。スタッフ・監督の一考を要する。青木さん(緒川たまき)のCGは生々しくて心が冷め、大泉洋の迫るシーンは陽気さがなくて長すぎる。必要?作家の連行(松重豊)に「(あの女を)仕留めたのか」と聞かれ、「仕留めてません」と返す台詞がもくろんだとおりに働いてなく、間抜けで冗長なやり取りになっている。あと、採掘場のメイクが残念。髭なのに、バイトの若い者みたいにしか見えない。

 大泉洋小池栄子の向こうを張るべくがんばった。妻に別れを切り出された後など、存在そのものが青くなっているように見える。ルパンで連行にいう「別れたいです」の一言は、ここだけは血を吐くようにマジだった方がよかった。

 『八日目の蝉』の小池栄子は、あの役を「通しきった」とこがすごいと思ったけど、このキヌ子は抜きんでている。大泉洋は、これからも小池栄子と一緒に作品を作りたいといっていた。それならこのペース(かなり早く、きつい)で走り続けて、再度合流しなくちゃダメである。小池栄子は、飛ばしてたもん。

下北沢 駅前劇場 綾田俊樹・ベンガルによる綾ベン企画vol.14 『川のほとりで3賢人』

 綾ベン企画vol.14『川のほとりで3賢人』、前売り・当日4500円、初日と二日目16:00のみ特別料金4000円。

 公演の前半、割引する若手劇団は多い。たぶん、芝居が固まってなかったりするからだろう。今回のこの割引は?

 …かたまってなかったね。全篇、味でなんとかしてたね。それは広岡由里子の言わねばならぬ硬い長い台詞に、早めにベンガルが割って入る(助けてた)のからもわかる。

 上等のスパゲッティ(デュラム小麦のセモリナ粉)で、ゆでてもふきこぼれず、茹でたお湯で出汁になる程おいしいのに、麺がなぜかぽきぽき短く折れている。

 広岡由里子の福祉課主任馬場マチコは、とても難しい役だ。最初から最後までだれなのあんた!?と観客に思わせなくちゃいけないし、主任らしくもしなくちゃいけないし、独り言も言わなくちゃならない。そのなかで、うっすらしたホームレスへの蔑みのさじ加減が絶妙だった。けど、ぽきぽき折れているのだ。食感がわるい。なめらかさが欲しい。台詞をもっとしっかり入れて。

 京本(綾田俊樹)と二本松(ベンガル)が、「時間がたつのは早いなあ…」と顧みるシーン、喧嘩をするシーン、打ち明け話をするシーン、重すぎず軽すぎず、とてもいい。けれど思い返してみると、シーンの繋がりが粗い。ぽきんと音がしそう。これは作家に責任がある。

 川のほとりに住む二人のホームレスのところへ、福祉課の女が訪ねてくるという話に、突飛なエピソードが絡んでくる。蛇のとこがシュールなのに(あんまり笑えない)、バンドエイドは普通でつまらない。俳優もその辺の調整が大変だろうとおもう。

シネ・リーブル池袋 National Theatre Live In Japan 2020 『リーマン・トリロジー』

 いそがしやいそがしや、磯辺の石に腰かけて、心静かに糸を解くなり

 縺れた凧糸、縺れた首飾り、縺れた刺繍糸、そういうのを年寄りの所に半泣きで持ち込むと、こう唱えて解いてくれたもんだった。

 舞台の上にはバンカーズボックスに見える(アメリカ人が馘首になるとき身のまわりのものを詰めるあれ)アクリルの透明セット、中には「会社」が詰まっている。そしてその会社は、もう使えないとあきらめて放り込まれた縺れた糸――アメリカの暗部を彩るリーマンブラザーズの歴史――だ。箱の中身は3人の男たち(サイモン・ラッセル・ビール、アダム・ゴドリー、ベン・マイルズ)によって丹念にほぐされる。ほぐされたその糸は、かつてリーマンの男たちが真剣に、そして慎重に渡った綱渡りの綱だったように見えてくる。

 たった3人きりの俳優が(いそがしや、いそがしや、)リーマン家の男たち、女たち、リーマンを支えた男たちを演じる。四人目の登場人物と呼ばれるピアノ演奏も、複雑で単純なアメリカン・ドリーム(金持ちになる、金持ちでいる、そしてもっと金持ちになる)に翳をつけていく。とてもシンプルで強い芝居だ。しかし、なじみがないせいかもだけど、一幕目は「よくある」話にしか見えない。リムパーの貧しさやみじめさが伝わらない。一族最後の経営者、三代目のボビー・リーマン(彼が出て来て話がおもしろくなった=アダム・ゴドリー)が、サイモン・ラッセル・ビールをにらむとき、それが「父なのか妻なのかわからない」のが、芝居の「弱さ」に見え、強みになっていない。

 タルムードの呪文のような朗誦がはじまると、私の頭の中は冒頭に戻って糸をほどくまじないでいっぱいになる。心静かに糸を解くなりだよ。