アップリンク クラウド 『シーモアさんと、大人のための人生入門』

 「うそくさい」

 ピアノの前で、聴衆に向かってシーモアバーンスタイン先生の紹介をするイーサン・ホークの声にケチをつけるのであった。

 シーモア老人の声は、どこで何をしていようとピッチが変わらず、拍は緩やかで優しく、誰に対しても同じだ。これさ、実は達人の境地なんじゃないの?ピアノの天才的才能を持つ自分と、お茶を淹れたりベッドをしまったり友人と話したりする自分を苦もなく繋げ、卑下もなく自慢もない。E・M・フォースターの「オンリー・コネクト」(ただ結びつけることが出来さえすれば、新しい世界が展ける)という言葉を地で行くシーモアバーンスタインなのだった。イーサン・ホークはきっとここんとこで困ってたんだろうなあ。彼が現世の成功と芸術的達成の乖離について話すとき、その苦悩の表情はほんもので、映画の中で際立っている。写真が折れて、その折り目が白く、そこだけザラザラになっているような感触なのだ。

 シーモアバーンスタインは優れたピアニストだったが、50歳で引退し、ピアノ教師として生きる。名利を追う生活や、演奏会前の緊張に疲れてしまったのかな。「自分」のレンジを振り切ってしまうような重荷を捨てたのかもしれない。

 ニューヨーク大学のマスタークラスでの指導は素晴らしかった。「繊細」「こまやか」の種痘(?例えが変かな?)を皆に施しているみたいだった。逸って弾いているように聞こえる女子学生が、別人のような音になったのを、シーモアがほめているのに学生がきょとんとしているのが可笑しい。すごくよくなったのがまだ腑に落ちてないのだ。才能の境を越える時ってこんなものかも。「とてもよくなった」、それは、先生、あなたの指導のせいですよ。

 

 

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youtube  二兎社 『立ち止まる人々』

 3月28日、29日に池袋芸術劇場シアターイーストで行われるはずだったドラマリーディング公演が、ネットにあげられている。只なの?お金払うのに。芸術ちゃんと「補償」されてほしいよね。

 いろいろおもしろかったんだけど、中では『鷗外の怪談』がすーごくよかったと思う。初演から六年たって、あの頃よりも「権力と個人」が緊張しているということを差し引いても、鷗外林太郎の西原やすあきと、賀古(鶴所)の竪山隼太の切迫した演技はスリリングで、この芝居観たことあるのに、行方の知れない黒い水を追いかけているような気持になった。国家の陰謀を止めようとする林太郎。その林太郎の栄達を支えてきた友人、賀古がそれを抑える。話の先が読めない。落としどころがわからない。いいじゃんか!と画面(精一杯大きく引き伸ばして観ました。)にぎゅーとひっぱられる。竪山隼太は火打石をカチカチ打ち合わせて火花だしているみたいだし、西原やすあきは火花に耐えているじっくりした炭みたいだ。西原はこのほかにも『新・明暗』の皆に嫌われる小林というジャーナリストをやっている。火花のがまんだけじゃなく、繊細な台詞の受け取りに気を付けて。竪山隼太ともすこし勝負しないとさー。記者小林に絡まれる人妻、原田樹里。キャラメルボックスで観た時より段違いに台詞がはっきり聞こえるようになったが、声がひらひら(おもちゃの笛みたいに)翻って聞こえ、内実(内心)を伴っていない。「私だって結婚前の津田(夫=伊島空)をしっています!」という時の「私だって」は、ひらっと体から浮いちゃってます。『ら抜きの殺意』、台詞だけでふうんと説得される。副社長(安藤瞳)の話に出てくるお花の先生の造型がしっかりしていて、強いハートでやり抜かれており、お花の先生見える。対する土井志央梨、リーディングとはいえ、ケータイがよく見えないぜ。

アマゾンプライム 『嘘八百』

 「女の子」。

 こうやってかぎかっこで括ると、なんか閉じ込められてる感じするよね。この映画の主人公小池則夫(中井貴一)にも「女の子」(森川葵=いまり)がいて、誰にも必要とされていない。この普通の女の子が、ばーん!意外な働きをするのだが、みてて全然すっきりしないのさー。それは多分、演出の(監督の?)「女の子」に対する考え方のせいだと思う。いまり=森川葵は記号や将棋の駒であって、雑に扱われている。高を括られてる。父小池もいまりに何の期待もしてないけど、それ以上に監督が「女の子」に意見がない。映画面白くなるわけないじゃないかー。脚本女のひとだろー。そこ汲まないんだったら意味ないよ。森川葵、脚本を読みこめ。(いや、監督が?)もっとうるさい「女の子」にも、静かな「女の子」にも、荒くれた「女の子」にもできた。「ふつう」の「女の子」の線が細い。

 小池則夫は骨董商だが、ニセモノを掴まされて店も妻も娘の信頼もすべて失った過去がある。骨董を通じて事故みたいに知り合った野田佐輔(佐々木蔵之介)とともに、大手骨董店と有名鑑定家に復讐を図る。

 大作ではないのに、よーく考えたキャスティングがされている。ハンサム率が低い。オッケー。

 バディムービーなのに中井と佐々木の絡みで笑わせるシーンが少ない。中井貴一はいまりと寿司を食べて舞い上がっているとこが一番はじけてて面白い、ってどういうこと?

 佐々木蔵之介は巻いてるマフラーの間に入ってる空気まで男前に見える。しかし、「お父さん」感が薄い。その妻友近学芸員塚地武雅、点描程度なのに頑張っていた。しかし、塚地はもう少し没入できるはず。

日生劇場 『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド ~汚れなき瞳~』

 セブンの前で、何故不良がしゃがんでいたかというと、それは何かのデモンストレーションでもプレゼンテーションでもなく、ただ、そういう風にしか座れなかったからである。体と心は、関係ないみたいだけど、関係してる。

 三浦春馬の演じる「男」(The Man)は、16歳のスワロー(生田絵梨花)の家の納屋に降ってわいたように現れる。彼はスワローの信じるとおり、キリストなのか。「男」には足と手に傷があり、それまでの屈折を身体で表わすため背を屈め手足はいつも曲がっている。これがねー。ちっとも似合わない。サマになってない。頭では理解してるけど、肚落ちしてないね。心の捩れが身体に出るように、「男」の体の癖を鏡の前で検討して。歌も自分の過去を吐き捨てるくだりで大きく演じすぎ。日生そこまででかくないよ。歌の端々に鬼火が灯るようにやってほしい。全体に大げさ。生田の声が「三月の水」「早蕨」って言葉を思い出させるが、冒頭のきょうだい三人で下手から上手に歩く足取りがもー、まずい。演出の白井晃はそこんとこどう考えているのだろうか。それにさ、1959年て、2059年の方が近いよね。何の企みもなくそのままやるんだね…。子猫を引き上げるところもちっともドキドキしない。子供の俳優というものは、大人がきちんと指導すれば、もっと光るのだ。厳しくという意味じゃない。勘所を押さえた演出してほしい。

 前半緩いのに、納屋の中の「男」とスワローの最終景がまばゆい。突然、三浦と生田のファンにとって最高のコンテンツとなる。なら最初からちゃんとやって。みんなに最高になるように。キャンディ(MARIA-E)、裏切られた女になってからは、キャンディがこの芝居を推進してゆく。もっと前に出て、つよく演じていいよ。開幕6分前、スモークが立ちのぼっていく所が素晴らしかった。

赤坂レッドシアター T-WORKS#3 『愛する母、マリの肖像』

 勇者。古川健が母と娘の関係につっこんできた。

 ねぇねぇ、仲よさそうに見えても、母と娘は大変なんだよー。母が「なんてすごいヒールなの」と言い、娘が「これくらい普通よ」と返したとしても、娘の心の手帳には裏抜けするくらい濃い文字で「呪われた。」と書いてある可能性がある。そこんとこ無視して作劇してる。お父さんのことを口に出しちゃだめなのも、結構ひどいのにスーッと通り過ぎる。一見甘くてありふれた着地点を設けるにしても、中身はもっと癖が強くて暴れてないと。イレーヌ(丹下真寿美)とエーヴ(佐藤聖羅)はコムデギャルソンとディオールくらい違う。そのことが芝居に全然現れてない。その母マリ・キュリー(山像かおり)だって、全体通してどういう女だったのかさっぱりわからない。庇髪に結ってるのが気になっちゃって、話がなかなか入ってこない。3人ともそれぞれ、堂々たる個性を持った「女丈夫」なのに、チェーホフの三人姉妹みたいになっている。キャラがちっちゃい。ミニ。最後の「ラジウム」を効かせるために。つまり、「話」はどうでもいいのかも。

台詞以上のことがなかなか起きない。さらさらしている。退屈。

 キュリー夫妻の友人ダニエル(辰巳琢郎)の存在が疑問。登場時、明らかに泣いていたという目を辰巳琢郎はしており、ここはいい。しかし、台詞がいちいち軽い。架空の人というよりいない人のようだ。この人いないんだ。最後の「く…」と顔を伏せて泣くシーンは、「泣いてます」と周りの人と観客に言ってるだけで決して泣いてない。あり得ない。前から二列目で凝然とした。ちゃんと心の窓を開けて(すんごい深読みした)自分の中に落とし込んでほしい。それともあれは、いないからなの?

 舞台が洞窟に作ってあるけど、芝居のどこにも洞窟も、「ラジウム」の得体のしれなさも、感じなかった。辰巳琢郎、がんばって。

アマゾンプライム 『マスカレード・ホテル』

 さんまが見つからん。手持ちのタブレットなんかでこじんまり観るからである。大きい画面で観なおすと、た易く彼は現れ、あっさりした大団円に拍子抜けしてもう一度頭から映画を辿る。

 こんなもんじゃなかろー。

 もっと大きい謎々が仕組まれているはず。何かあるはず。例えば指でピースマークを作ったら、勿論指は2本見えるけど、ゆっくり手首を返すと指の位置が重なって1本に見える的な。と焦りながら3回観るが何もない。

 こんなもんだった。謎々なかった。うなだれて電源を落とし、こんなゆるい作品で懸命に働いた役者の人々のことを考える。特に木村拓哉。連続殺人を追う刑事たちが高級ホテルに潜入し、犯人を追う。その一人新田を演じる木村は、どんなひどい台詞も、シチュエーションも、絶対にスルーせず、ラケットをぎりぎりまで伸ばして拾い、「ださくない所」「ベタじゃない所」に打ち返す。ださくベタなこの映画は、実は木村に救われている。老婆の打ち明け話や新田の指導係フロントクラークの山岸(長澤まさみ)の思い出話など、テレビでは許されても『1917』と同じ料金を取る映画では決して許されない処理でありしんみり度である。処理と言えばペーパーウェイトはテレビならではのしつこさで、唯一笑える箇所の散髪シーンは画面のテンポが恐ろしく悪く全く笑えない。さいご、ホテル前にスーツで立つ新田の靴がぴかぴか、っていうのと宇梶剛士の写真がかわいかった。生瀬勝久がホテルの窓から外を眺める一瞬の喜び、小日向文世が客室のソファの背を撫でるところが素晴らしい。木村拓哉、どんなダサいものでも打って「センスある普通」にできることは分かった。自分の好きな色のシャトルでサーブする練習しないと。それは怖いよ。長澤まさみはこのキムタクのセンスをみよ。

Pカンパニー 『京河原町四条上ル近江屋二階――夢、幕末青年の。』

 京都だねーと、なぜか一見してわかる二重を組んだ舞台、階段に明かりがあたっている辺りを見るとどうやら赤いみたい。天井のサスにも赤い色が反射しているもん。それが京の橋と血塗られた幕末をすぐイメージさせる。二重の台は高さが揃っていて、死んだ人たちのように重なり合っているのだ。功山寺(山口)にある万骨塔を思い出した。主に明治まで生きなかった志士の名を刻む、悔恨と憤懣のこもる塔である。赤い二重の奥に、語られないそれがうずくまっているような気がする。この装置、いろんなことを思わせるのにとてもシンプルでいいです。

 ところが。客席上手のドアから登場する女(案内役、木村万理)とその連れの髭(森源次郎)の衣装がひどい。案内役は臙脂のレザージャケットにジーンズ(ぴたぴた)にヒール、髭はやっぱりレザージャケットに拾って嵌めたようなストーンズのあのマークがついている。ぜーんぜん感情移入できないし、どの位相にいる人なのか、いやそもそも現実にいるタイプとは思われない。しかし話はどんどん進んでしまう。待ってー。「伯父貴」この言葉、今息してる?

 案内役とともに中岡慎太郎(林次樹)の過去に飛び、襲撃者の若者(松田健太郎)のつましい家庭を見せ、二重を積み上げていくようにあの近江屋二階の高みに到達する。「人間は利得でしか動かん」「約束は破った時から嘘になる」軽い感じの作劇かと思ったら、この二つの台詞がとても重い。ひっそり控える悔恨と憤懣が、身じろぎしたような気がした。一シーンごとのつながり、方向性が鈍く、てっぺんの近江屋、そして、その上で踊る人々の所まで行きつけない。中岡、実物と似てないけどよかった。中学の時、図書館にあった唯一の戯曲が『真田風雲録』だった。今日はその作家の芝居を観ることができて、感想文を書いた。