アマゾンプライム 『グリーンブック』

2013年『それでも夜は明ける』。地面に爪先立ちになって動きつづけないと首に掛けられた縄で窒息してしまう罰、解放された主人公を追いかけて絶望の余り泣く女の奴隷。黒人による、奴隷を扱ったこの映画を見て、2013年まで黒人の目で語る奴隷制の映画を「まだ」観てなかったことに驚いた。日本を一歩出たらマイノリティの癖に、日本を一歩も出ないから疎いのさ。『グリーンブック』、すごく面白く観ちゃったのであった。

ニューヨークのクラブ「コパカバーナ」で用心棒をつとめるイタリア系のトニー・リップ(本名バレロンガ、ヴィゴ・モーテンセン)は、アメリカの最南部までツァーに出掛ける黒人の天才音楽家ドク・シャーリー(マハーシャラ・アリ)の運転手に雇われる。8週間の間、トニーとドクには様々なことがふりかかる。粗野なトニーを厭うドク、ドクを理解できないトニー、二人はぶつかりながら互いに心を開いてゆく。私が感心したのはどちらの男も繊細な人間としてえがかれているところだね。ドクの孤独を見て取るトニーもいいし、トニーの妻ドロレス(リンダ・カーデリーニ)にツァー同行の承諾を取るドクもいい。特にタオルをかけてやれと怒鳴るトニーには、どういう局面でもちゃんとしてる人には必要な(こういう人に出遭うか出遭わないかでその後の状況は全然違う)惻隠の情がある。マハーシャラ・アリは長い指を音楽家らしく優雅に扱い、インテリのピアニストを見事に演じるが、ヴィゴ・モーテンセンはイタリア人のおっさんそのものに見える。いいよ、ヴィゴ・モーテンセン

映画を見た後、黒人は白人が上昇するための、回心するための触媒や道具ではないのだという意見をネットで見るとこう思う。

 黒人が道具ではなく登場する、黒人から見たドライブ映画は、まだ撮られていないし、私も観ていないんだなって。

アマゾンプライム 『わたしは、ダニエル・ブレイク』

 大工のダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は心臓病で働けない。国から支援を受けようとするが、国はまるで何とかして補助するまいと決意しているかのようにダニエルを阻む。高齢のダニエルには、オンラインで書類に書き込みすることからして難しい。決してあきらめないと思うダニエルだったが、ふと知り合ったシングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)と同じく、その生活は追い詰められていく。ケイティは貧しい人(ケイティも国の補助を受けられないでいる)に食糧を供給するフードバンクで、突然トマト缶を開けて中身を手づかみで食べる。乏しい食事で子供に充分食べさせるため、自分は飢えているのだ。空腹の余り「何をしているのかわからなくなった」このシーンは、何が起きたのか咄嗟にその場の誰にもわからないという方法だと思うんだけど、うまくいってない。びっくりしない。まずいよ。脳内で「じぶんのこと」として再生できないもん。ケイティの娘デイジー(ブリアナ・シャン)はフードバンクに行ったことを友達に知られてしまう。夜、母親のベッドに行って打ち明ける時、その体は冷たい。ずっと眠れなかったんだなあ。ここ、いいよね。それに娘が美貌であること、息子が多動なことから、ケイティの人生が垣間見える。説明なしで素晴らしい。

 この飢えているシーンからの成り行き、ITが扱えないダニエル、はらはらして観ているだけで怒りがふつふつ湧いてくる。

 遂にダニエルは爆発するが、その姿は名乗りを上げる中世の騎士のようだ。施しを受けようとしてるんじゃないんだ、わたしは一人の市民だ、その怒りは、ひとり十万円の補償すらなかなか受けられないでいる私たちにも共通している。

アマゾンプライム 『イエスタディ』

 「はい、円の面積はπrの二乗、この公式、先生が発見したんやったらよかったけどね」

 と、つまらなそうに言う数学の先生がいたなあ。と思い出すビートルズのいなかった世界の物語『イエスタディ』。だあれもビートルズのことをおぼえていないのに、たった一人、売れないミュージシャンの卵ジャック・マリク(ヒメーシュ・パテル)だけは、なぜか彼らの歌を記憶していた。ビートルズナンバーを自作と偽って人気者になっていくジャックは、かわいい一途なマネージャーエリー(リリー・ジェームズ)と別れ、ダサい服はいつの間にか洗練された「だささ」を醸し出すようになり、高台のゴージャスな屋敷(LA)に住む押しの強いデブラ(ケイト・マッキノン)にマネジメントを受けるようになる。

 こうなったらどうしようとだれもが思いつく波乱が面白く解消され、後味もいい。なにより、コロナで毎日神経をすり減らしている自分が、ふわっと解放される。暗い映画が嫌いな家の者も文句言わない。いがいがするところが見当たらない。コロナ下での最適な映画選びだった。ただし、コロナ下で、だよ。

 うちの中学の先生の発言にあった苦み、最後に歌うジャックにあるはずの苦み、岬の男にもあるはずの別な人生への微かな希求がない。それがないと映画はただの「おはなし」になって、消費され忘れられてゆく。ダニー・ボイルのこの映画っておしゃれでかわいくて楽しいけど、画面の厚みが三ミリぐらい。浅い。あれで深さがあったらなー、岬の男のシーンとか、きれいなエーテルが凝(こご)ってうす紫の水晶に化(な)ったように見えたと思うけどね。エド・シーランきちんとピースとして嵌っていた。

アップリンク クラウド 『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』

 セルゲイ・ポルーニンの跳躍と回転を見て!

 乱暴なくらいの勢いをつけて、空中に放り出された片足の中心で、残りの体が美しくデリケートに旋回してゆく。

 このドキュメンタリーはホームビデオからテレビまで、いろんな映像を使ってダンサー=ポルーニンの足跡をたどる。

 私が一番すごいなと思ったのは、ロイヤルバレエをやめたあと、どこからも声がかからず、ロシアのテレビ番組でバレエを披露するところだったよ。華麗な踊り、派手な跳躍、多彩な技、すべてが必死で、なにかこう、「もうあとがない」という、つきつめた集中が感じられる。それが勝ち抜き番組の俗っぽさを越えてるのだ。

 この人さ、つねに「もうあとがない」と思って踊ってるのかもしれない。家は貧しく、才能のあるセルゲイに、家族たちは必死になって全てを賭ける。父はポルトガルに、祖母はギリシャに、彼の学費をねん出するために出稼ぎに行く。すこし翳のある目をした母はポルーニンに厳しい。彼はロイヤルバレエ学校で人の二倍のレッスンを取る。しかし、彼の「あとがない」努力は、両親の離婚で崩壊してしまう。人間てさ、「自分のため」にはがんばれなくても、「何かのため」、ポルーニンの場合なら、ちりぢりになった家族のためなら頑張れるってことがある。動機が消え、ポルーニンは問題児と呼ばれ、クスリをやっていると公言する。

 フリーになったセルゲイは、ホージアのTake Me To Churchを踊ることを決めた。これきっと、自分の追詰められた囚われの感じ、「あとがない」ありさまそのものを踊っているんだと思う。まるで鋼のリボンの上で踊ってるみたいだもん。作品はもっとお母さんに突っ込んだこと訊かなきゃだめだ。鋼のリボンの裏側で踊る、もう一人のポルーニンとして。

アップリンク クラウド 『白い暴動』

 「移民を全員拘束して国外へ出す。18世紀末の流刑のように」こんなこと眉一つ動かさずいってのける政治家(イーノック・パウエル)に支持を表明するってどんなんだ。まあ、「自分の知っている場所」が変わってしまうというのは怖いものだ。恐怖。深い所から出た恐怖が偏狭な思想と共鳴する。でも、こういう共鳴ってただ自分をいやしく、陋劣にするだけなんだよね。

 1970年代の終わり、移民の多さに異を唱え、究極的にはナチにつながるスローガンで急速に支持を伸ばしていたナショナル・フロント(NF)という集団がイギリスにあった。(いまもある。)デヴィッド・ボウイ、ロッド・スチュアート、エリック・クラプトンらがイーノック・パウエルへの支持を表明し、それに危機感を持った人々が、「ロック・アゲインスト・レイシズム」(RAR)という運動体を立ち上げる。機関誌を発行し、折からのパンクの流行に乗って、黒人やアジア人、パンクのミュージシャンとともに白人至上主義と対抗し、やがては何とか押し流してゆく。

 パンクがレイシズムと戦ったことをやっと知ったような私は、話についてゆくのが大変。その上全部がさらさらしている。イーノック・パウエルの事知りたい気もするし、おばあさんがサフラジェットでお母さんが公民権運動家のRARの女の人のこともしりたいし、ジョー・ストラマーもっと見たかったし。どうしてロッド・スチュアートやクラプトンに話を聴かないのか。いやそんなことはいいんだ。このドキュメンタリーの中で一番いい所は、何の力もなく、ただ平凡に日を過ごす「私」のなかに、思わぬ力、現状を変える力が潜んでいるという発見だ。声を出すということ、そこに何かを変えうる、変革するマジックがある。残念だけど映画の終りに続けて、自然に「私はね」と声を出せるような仕上がりにはなっていない。

youtube 『オペラ座の怪人 25周年記念公演inロンドン  The Phantom of the Opera at the Royal Albert Hall』

 ええーそうだったのと、最後のインポーズを見てびっくりしている。ファントムの顔は半分見えなくて、見えるほうの半分にも細かい疵がぶつぶつとつけてあり、唇は斜めにめくれているのだ。張った声をよく聴けば分かったかもしれないけど、このファントムにこの人が選ばれたのは、繊細な歌いまわしが素晴らしいせいだよねと思って観た。ぼーっとしてたのか。「The Music Of The Night」という歌のおわりが、歌がぶれているのかと思ったら、伴奏に不穏な音が一音入れてある。障害物を乗り越えて歌い続けなければいけないんだね。でもここは、只者ではないファントムであることを歌手も予感させなくちゃいけないんじゃないの。

 あと、物凄く驚いたのは、16,7回も続けてくるくる回るダンサー(劇中劇の奴隷頭、小さい笞を持っている)が、あのセルゲイ・ポルーニンだったことだ。ポルーニンてドキュメンタリー映画になっているし、図抜けた踊りでとても有名なのに、「異国風です」というのを見せるために惜しげもなく投入されている。ごはん屋さんの品書きが、とつぜん良寛さまだったような感じだよ。この時(2011)英国ロイヤルバレエ団のプリンシパルだったそうだ。

 クリスティーヌ(シエラ・ボーゲス)がラウル(ハドリー・フレイザー)にもらった薔薇を喜ぶ表情が素敵で――薔薇の為だけに存在する瞬間がある――それは観客に二つのことを教える。クリスティーヌは美しいものが好き、そして愛する者だけのために、たった今存在して歌うことができると。

 終幕クリスティーヌのまなざしはファントムにやさしく注がれていて、なんでファントムを選ばないのかと思うほどきれい。ファントムにはこの人こそ薔薇だったんだなと思わせられる瞬間である。4月20日月曜(19日の深夜)の午前三時まで無料で観られます。

アマゾンプライム 『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』

 絵筆がブリキ缶にあたる微かな音。曲がった腕で一人の女が絵を描いている。絵の具の色はつやつやと赤く、筆の先にたっぷりと溜まる。女の指の第二関節に、ターコイズグリーンの絵の具がくっついている。これ、夢の色だ。

 『しあわせの絵の具』。うっげー。この題名ひどくないか?たとえば「しあわせの湯飲み」、「しあわせのさじ」、「しあわせの靴下」、なんでもいいけど、「しあわせの――」映画、みない自信ある。スウィートすぎる。けどさ、外出しないで家にこもり、一心に映画を見てるうち、おっ、と思うのである。

 体が思い通りに動かないモード・ダウリー(サリー・ホーキンス)は、どこでも厄介者にされ、寂れた小さい一軒家で家政婦を探すエべレット・ルイス(イーサン・ホーク)と同居するようになる。モードは深い所で絵に頼っている。彼女が息を吐いて絵の具の缶を開けた途端(色はターコイズ・グリーン)、缶の中から(何か出た)と感じる。夢、あこがれ、絶望、悲しみ、そういうもんがぱあぁっと缶から放射する。だからしあわせの絵の具なんだねー、でもさー…。

 孤児院育ちの武骨な変わり者ルイスが登場した後アップになると、(スウィートだなあイーサン・ホーク)と違和感がある。男前。可愛い。「しあわせの絵の具」だよ。しかし手押し車を押す後姿はいかつく、口ぶりは荒い。モードが新聞記事の中に彼の名前があることを告げる時、この男の中の子供(スウィートさ)が中から溢れてくる。まるでお母さんを讃仰するように彼女を見上げている。

 最後に実物のモード・ルイスが白黒映像で映るけど、それはショッキングなくらい苦労してきた女性の顔だった。傷つく人生、つらい人生って、こんな顔つきをしているのだ。