三島由紀夫没後50周年企画MISHIMA2020 『橋づくし』

 ――函(イレモノ)違い。と最初は思うのだ、特に芸者小弓(野口かおる)を筆頭に、女たちが舞台の周囲を、きいきい声の早回しで喋りあい、動き回るときには。なんだかとっても前衛で、日生劇場に合わないような気がしてしまう。

 四人の女は願い事をかなえるため、橋をいくつも渡る。渡る間に他人と口を利いてはいけないし、話しかけられてもいけない。水際立った浴衣姿の三人と、それに付き添う女中のみな(高橋努)は歩きながら左右の手を重ね、腕を環につくって歩くたび揺らす。願いに凝ったその姿が一心で、猫の道中のようで可笑しい。ナレーションが流れ(口を利いてはいけないから)、料亭の娘満佐子(井原六花)や旦那に恵まれない芸者のかな子(井桁弘恵)がそれに合わせ踊りのように激しく身体を動かす。そのうち浴衣のすそは割れ(すばやく直し)、袖から腕が力強く突き出され、浴衣はたぐまってくしゃくしゃになってゆく。何だかユカタがぶちっとちぎれ、ぱらぱら散ってしまいそう。

 ちぎれ!浴衣なんていうおとなしやかに身体を包むものを、やぶっちめー。このようなものに、女の身体は奪われていた。

 冒頭のきいきいいう女たちは浴衣の下で、乾物の豆のように干からびていたのだ。激しく願い、欲望することで、彼らは皆本然の姿に帰っていく。函(イレモノ)が違っていたのは劇場ではなく女たちの方だった。皆気楽そうな服になり、五色の酒を飲んでいる。ここ陳腐。野上絹代は振付もする人のようだが、振付あんまり感心しない。うどん食べる時にうどんの身振りとか、落語じゃないんだから。野口かおる、適っている役なのに声がダメ、野口を見るといつもどこか「惜しい」と思うのだ。関係ないかもだけど、あの有名な細雪の雪子の下痢、こういうことだったのかもなー。

東京芸術劇場 プレイハウス 『ボクの穴、彼の穴。』

 とってもいい話。原作のペン画は洒落ていて、舞台もスタイリッシュに仕上がっている。砂漠の穴の中に、一人置かれた兵士の孤独。心の変化。そして砂漠のどこかにもうひとつある敵の穴への恐怖、憎しみ。穴から覗く満天の星空もいい。照明も美しい。

 まずいのは、たった二人きりで演じ、80分をほぼモノローグで進める役者だ。

 大鶴佐助の演じる兵隊は、すこし甘えた調子でしゃべる、いまどきの若い人で、その造形はきちんとしている。しかし、この甘えんぼの男の子では80分がもたない。リアリティがないからだ。お腹がすくとか雨がいやだとか(塹壕足って知ってる?)、人の根幹にかかわる感情が、空に穿った小さな穴みたいに、瞬間ギラリとしてほしいのに、浅目にふわふわっと通り過ぎてしまう。その上、声がすこししゃがれている。まだ二日目じゃないか。若い俳優に「プレイハウス」「二人で」は負担だろう。しかし、声は嗄らさないように。声を嗄らす人は評価しない。ゼロだよ。

 宮沢氷魚の兵隊は、長い脚を折り曲げて腰かけている間はなかなかいい。だが、たちあがって動いた途端(うっ!)ておもう。体がキレない。つまり、身体の扱いが鈍重で、きびきびしてない。からだの隅々まで神経がいき渡っていないのだ。台詞も一回息するごとにフレーズ一個しか言えてない。愛嬌もない。まだそこまで自分を曝け出すことができないんだね。おまけに歌ときたらふたりそろっていまひとつ。宮沢氷魚、まずブレスしても緊張を維持できるようになろう。まずそこから。いっぺんにたくさんのことはできなくていい。今、めっちゃハンサム(武器だ)なのにハンサムに見えない。客を信頼する。客はあなたを愛している。

下北沢 スズナリ 東京No.1親子 第2回公演 『夜鷹と夜警』

 紙にエンボス加工。浅っ!というわけで、セットの鳥居が舞台に浅めに埋め込まれているように、この田舎町の市議会議員をめぐる芝居全体が、「現実」にエンボスみたいに埋め込まれている。但し、限りなく浅く。あまりにもエンボスが浅いので、全体が不鮮明でぼんやりしている。全員がいくつかの役をこなし、その役が不鮮明にぼんやりと、他の役に通底しているのだ。役もわざわざ浅めに作ってある。ここがなー。むずかしいよね。浅くないとメタな面白さが半減し、逆にその「浅過ぎ」が演劇としての成立を危うくする。開演して1時間15分後に議員の「悪評」という言葉が出て、話がくっきりするのを待たなければならない。長いよー。

 福原充則、いい台詞多すぎ。いいフレーズがばらまくように入っており、結果、どのいい台詞も頭に残らない。「無理ない範囲で人を罰したい」だの「お互い何だかわからないものを貸し借りするのが好き」だの「気が済む事なんてあるんですか」だの、佐藤B作が手をぱちんと叩く間に通り過ぎていく「いま」が満艦飾である。

 村上航の演じる自警団の過去(すすどい目をしたバンドマンが、電車に積んだままのギターに別れをつげる)がバシッとしており(エンボスが利いている)、「あれ、主役?」と思った。佐藤B作佐藤銀平も、役に「すすどい」所が足りない。このままでは、「メタで新しい演劇」「残念な演劇」の見分けがつきにくいよ。ふたりはどちらも自分の「ここ」と思う役柄の勘所に、全体重を掛けるべきだろう。それは最後のシーン、最後の台詞ではないでしょうか。

 安藤聖、体重かけているけど、それが軽い。エンボスの按配を演出に指示されてるのかもだが、その演出はどうなんだ。狙いはデコパージュでも、エンボスに見えてるよ。

ケムリ研究室 no.1 『ベイジルタウンの女神』

 ハイタウン(金持ちの街)の女社長マーガレット・ロイド(緒川たまき)は、ベイジルタウン(貧民の街)の再開発の権利を賭けて、乞食の多い貧民街へやって来る。素敵な服はぴりっと破られているけど、ちょっと浮世離れした彼女はそれほど気にしない。ベイジルタウンの誰彼にも、自分は社長だと臆せずに言う。ただ、それを誰ひとり信じないだけなのだ。

 ハイタウンとベイジルタウンの間を、脳梁のようにつなげる情報が弱い。役所の人(齋藤悠)とか空を飛んでくるものとか兄ちゃん(マスト・キーロック仲村トオル)の前職とかだ。弱いので笑いと情報と、糸が二本どりで通してあるが、もっとしっかり笑わせた方がよかった。前職は提示をデリケートにしないと、少し引いたよ。

 それから「ねむり」についてのサーカス(犬山イヌコ)とドクター(温水洋一)の会話で、「それをそのままねむるのよ」というところ、もっと深めて言えるはずだ。何か奥深い台詞があってよい場所なのに、すいすい通り過ぎている。あるいは、「そのまま」の説明しがたさを説明する可笑しさを、丁寧に客席に伝えるべきじゃないの。

 寓話のようなそうでないような不思議な生々しさで、役者の台詞の音色(おんしょく)がとても重要。松下洸平(ヤング)の声が割れるけど、「割れそうで割れない」ぎりぎりのところを探ったほうがいい。「おはなし」と「リアル」の境目だ。あと恋人(スージー吉岡里帆)が豹変した時顔が完全に後ろ向きだけどいいのかな。弁護士チャック・ドラブル(菅原永二)はまったく生き生きしている。いい加減で不条理で追従屋で、口の中からレシートなんかがつながったまま出てきそうだ。たくさんの観客が「実は菅原永二すきだった」と気づいてしまうような出来栄えだ。緒川たまきの存在感が、寓話をリアルに、リアルを寓話に近づけている。

TOHOシネマズ渋谷 『思い、思われ、ふり、ふられ』

 ひとつ、とてもはっきり云えるのは、「私はこの映画に求められる観客層じゃない」ってことだ。

 同時に森茉莉と妹の杏奴が(戦前かもしれない)、お涙頂戴の邦画を見に行っては互いの体を叩きながら笑ったという話も思い出す。

 まず、これ映画なの?長いプロモーションヴィデオじゃなく?だって誰も芝居してないじゃない。ドキュメンタリーでもない。ビクトリア朝の夢見るセンチメンタル写真のように、皆、「こういう風に撮られたい私」を押し出しているにすぎず、早い話が「すてきな自撮り」「すてきなアー写」だよ。

 「お伽噺」であることを意識してか、画面の展開はおそろしくゆっくりで、観ているこちらの頭の回転を、ことさら遅くするのに一役買っている。戦前かと思うくらいだ。

 浜辺美波は冒頭で恋を「こーい」と発音する。それどうなの。浴衣でお宮にいる時、袋を取りに画面奥へ2,3歩歩くが、その2歩がもう、「歩けていない」。なぜ練習させないのさ。射的でとるサルのぬいぐるみは射的屋のおじさんの趣味を尊敬するほどかわいいのに、由奈(福本莉子)の抱きしめているウサギは心の底からいただけない。あんなウサギをかわいがる女の子の運命への興味は、削がれるに決まってる。勝手にくっついたり切れたりする大人たちの陰で、苦労をしている子供たちは、布で巻いた、鋭利な鋏に胴を締め付けられるような重圧を感じながら生きているのだろう。その苦しみはうっすらわかるが、うっすらでしかない。「今の若い人は、ちょいちょい告るのだなあ」「浴衣着ることに人生の比重がかかっているなあ」という方向に気が逸れちまう。「やっとつかまえた」という赤楚衛二、つかまえ方かっこよくない。説得力ない。監督は演出しないの?見てるだけ?

THEATRE1010 千住落語会vol.17 『春風亭一之輔 独演会 ~重陽に笑み栄ゆ~』

 矢鱈縞っていうのか、茶や草色の縞の、狭い広いが思い思いになっている、落語にうってつけの渋い緞帳がかかってる。

 ひと席おきにお客が座り、扇子をつかう男の人、女の人がちらちらし、ゆっくり又はせわしく風を送る。今日も暑い。もう9月9日、重陽節句だっていうのにね。幕あいた。

 開口一番、と下手のめくりに書いてあり、その後ろを通って春風亭貫いちが現れる。とても足早、懐に何か入れながら、あれはなんだろ、手ぬぐいかな。一之輔の四番弟子だって。いろいろ急いでいるから汗が出て、師匠をフキゲンに(貫いちのポロシャツが汗まみれで、ってあとで一之輔がいってた)させちゃうんじゃないのかなあ。ゆっくりでいいよ。一つ深呼吸してから何でもやればいいのに。と思う間もさっさっさと咄は始まる。『桃太郎』。むかしむかし。むかしむかしっていつ?あるところに。あるところってどこ?眠くない金坊とおとっつぁんの会話がはじまった。話ははきはきしてる。声が大きく、斟酌しない、この斟酌しない所が、いいところでもあり弱点でもあるのかな。桃太郎、ちょっと苦手。「教科書」とか「徳目」とかの匂いがするもん。「いま」の金坊が、「むかしむかし」と「あるところ」をすごく講釈するところで、7文字を一章費やして語る本のことを思いだしました。貫いちは「だんだん」と「どんどん」がいっしょくたになった発音で話を進め(斟酌せず)、オチ(サゲ?)まで一直線に話し終えた。「昔」の金坊が怖い話は嫌だという時、目を押さえてるのがかわいかったよ。

 貫いちが高座の座布団をきちっと丁寧に整え、めくりをめくる。拍手が起き、春風亭一之輔がまだまだ目に涼しく映る薄い緑の着物と黄色の羽織で高座に上がる。坊主頭だ。あの、私、21人抜きで真打になったというから、義経の八艘とびとか連想しちゃって、小柄な目から鼻に抜けタイプを考えてたのに、勝村政信をとてもごつくしたような人だった。どっちかといえば、弁慶かな。フェイスシールドや劇場の名前やPCR検査やゲリラ豪雨の話をする。話をしながら可笑しいことを言うと、自分もおかしそうに笑うところが印象的だった。なんかさわやか。視力のいい人の例えでニカウさん(アフリカ・マサイ族の)の名前を二回だし、(あれ)と手元の控えに「ニカウさん二回」と書いたら、書き終わらぬうちに「令和二年 ニカウさん二回言いました」といっていた。

 噺にはいる時(『あくび指南』)、むかしはおけいこ事という物を…と話し始めるのに、もうすでにキレイなおっしょさんが言葉の端々にちらっと覗いてる。ありなの?なしじゃない?まずいね。

 でも私吃驚した。もともとの落語、っていうか下図が見えない。勿論古典の線は(鉛筆書きで)あるわけなんだけど、その細い線の上を太い筆で辿って勢いよく「いま」話す。八五郎が容子作るのも、江戸風であり現代の自撮り風であり、かっこいい映画風でもある。「でぇくです」っていうのは古典だが、「うち…建ててます」は寡黙なスターのよう。

 欠神斎長息(?当て字です)と八五郎のやり取りは、(わたしはスポーツクラブのインストラクターと運動神経ゼロの人のことを思い出し、)あくびを習う奇妙な習い事に八五郎が「斬新!」と目を輝かせるのがふっと風が入ったように、新しい。もはや下図の線というより下図の点て感じ。点から点へ一気呵成に線がひかれる。元ネタ見えない。生きてる。勢いある。

 今日の座布団座りにくそうだった。貫いちも一之輔も、前方下手寄りに微かに傾いていた。上手からみてるとよくわかる。

 仲入りのあとは『笠碁』、よかったけど、盤面みるとき、もっとその場で考えた方がいいような。「今起きてること」が薄い。

 一之輔はさらりとやってたが(さらりが大切)、オチ(さげ?)があるのにそこはかとなく人情話でした。

PARCO THEATER OPENING SERIES 『ゲルニカ』

 (これがゲルニカ

 開幕前の赤い幕を眺め、血塗られたってこのことよ、と心に呟くのであった。照明の加減で上の方が不吉に黒みがかっている。きっと、栗山民也には「ゲルニカ」のモノトーンの中から、襲い掛かってくる兇暴な赤い色が見えたんだね。

 元領主の娘(サラ=上白石萌歌)、人民戦線に加わる大学生(イグナシオ=中山優馬)、新聞記者たち(クリフ=勝地涼、レイチェル=早霧せいな)、人民戦線兵士(林田一高)、バスク民族党員たち(ハビエル=玉置玲央、アントニオ=後藤剛範)、食堂のおやじ(イシドロ=谷川昭一朗)、フランコにつくサラの母(マリア=キムラ緑子)、その魂を操縦しようとする神父(パストール=谷田歩)。様々な人間が様々な立場で1937年を生きる。何も知らない、知らされない娘サラは、婚礼の日を迎える。しかし婚約者のテオ(松島庄汰)はファシストの求めに応じて、さらりと出征してしまうのだった。

 母マリアに罵られ、サラは突然成長する。マリアに向かって「まちがっています」と言い切るのだ。ここ、魂の目ざめじゃないの?いってみればテト(ナウシカね)くらいの。そしてこの一連の台詞のうちに、つよい母とタメを張る丈高い女性にならなくちゃいけない。おもしろいとこじゃん。もっと気合い入れてほしい。あと、思い悩むときの歩く姿(前傾姿勢)が美しくない。

 イグナシオ、クリフ、ハビエル、テオ、皆大体柄が似通っていて、1937年の若者の抽象的な像を作っている。一人の青年の、四つに割れた貌だ。振り切っていい。玉置玲央、青くなる酔っ払いいまひとつ。石村みかの役、脚本が不分明。中山優馬、最後強めで。

 拍手して足元を見ると、赤く設えられた絨毯がある。中からあの色のない絵が流れ出してきそうな気がした。