劇団俳優座 No.343 『火の殉難』

 あれっ、高橋是清アメリカで「奴(やっこ)に売られた」という話は?高橋が幼時、馬に踏まれそうになった「強運」の話は?

 どっちも影も形もなくて、芝居は金融と戦争、そしてテロについて詳しく物語っていく。

 うーん。よくわからん。古川健は司馬遼太郎(後半の)が好きらしいけど、司馬遼太郎だって、芝居を書いたことはあったよね。劇団の演出部の人が、つきっきりで、「それは芝居になりますまい」とか意見をいったってどっかで読んだ。古川健は、その「芝居にならない」場所を芝居にしようとしてるのかな?劇的な場面にしようと思えばいくらでもできるはずなのに、テロルを起こす側は、「待っている」。そして高橋是清(河野正明)邸では一族が夜のお茶を飲み、新聞記者(渡辺聡)と歓談している。ここがなー。あんまりドキドキしなかった。スリリングでないよ。

 しかし、中村中尉(藤田一真)と中田少尉(馬場太史)の、戦前の軍人の身ごなしが手の切れるようにシャープで、久々に軍人役を見て「怖い」と思った。そのしぐさの中に幾分か自分たちへの陶酔すら感じられる。出色。

 「芝居にならない」「退屈」と、この二つを芝居の後は強く思っちゃったんだけど、果たして退屈が悪いことなのかどうか。高橋是清には「金融」がわかり、昭和維新の人たちにはわからない。「金」という方向からいろんなものを観るというのは「芝居になるかならないか」「退屈かそうでないか」で事態を観がちな自分にとって新しかった。河野正明、温顔で、かわいくもあり、この役に合ってる。でも厳しいとこもあっていい。アフタートークで、映写が見えにくいと言われ演出家が素直に「すみません」と謝っており、ちょっと感じ入った。俳優座も名簿が混合でないけど、このまま貫くの?

新橋演舞場十一月公演 『女の一生』 

 森本薫、1946年10月34歳没。前年1945年10月のエピローグで幕を閉じる『女の一生』は森本の代表作。そうでしょう。主人公布引けい(大竹しのぶ)のみならず、脇役のそれぞれに複雑な味わいがあり、スルメのようにいつまでも頭の中で歯噛んでいられる。

 日清戦争遺児の布引けいは、おばさんの家を飛び出し、さまよって迷い込んだ堤家のしずに拾われる。堤洋行という中国との貿易会社を営む堤の家には、伸太郎(段田安則)、栄二(高橋克実)というしずの二人の息子がいる。商売に向かない学者肌の伸太郎を案じたしずは、有能で商売にも関心を持つけいを長男の嫁にと望む。けいは次男栄二に気持ちがあったけれど、思いを断って恩人しずに報いるのだった。

 「だれが選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの」という人に知られた台詞は、こんなとこに出てくるのかいと驚いた。伸太郎は「シナの事は金」と言い切るけいにたいし、日頃の屈折した思いをぶつける。女にしかないものがお前にはないし、お前にはついてゆけない。その指摘はけいの痛いところ、柔らかい所を衝く。伸太郎は大変落ち着いていてけいに物をいうのだが、そうかなあ。昔の男の人が妻の過去についていうって相当だよね。けいのあの台詞って、物凄く動揺しているけどそれを抑えつけていうんじゃないの。動揺させるように言わなくちゃね。それとあの台詞って、スポットが当たって斜め上をむいていうような台詞なの?今日の大竹しのぶは、一回視線を落としてから顔を上げるので、見得を切ったように見えたよ。変な気がした。結婚しない総子(服部容子)の造型もよくわからん。あれ細雪の雪姉ちゃんみたいな人じゃないの?彼女のドラマがよく見えなかった。

渋谷HUMAXシネマ 『十二単衣を着た悪魔』

 えっパンフレット売り切れ。客の入りがいいのかも。

 就職試験に連敗中である雷(らい=伊藤健太郎)は、弟(細田佳央太)の京大医学部合格でへこむ。彼女にも振られた。現場の搬入アルバイトとして参加した源氏物語展(製薬会社がついている)でもらった源氏物語の解説と薬を持ってさまよう道で、雷は源氏物語の世界に紛れ込んでしまう。彼がいるのは弘徽殿の女御(三吉彩花)のもとだった。弘徽殿女御と言えば光源氏の敵。しかし雷は、「出来の悪い長男の母」とされている女御に感情移入し、持っていた頭痛薬の効き目もあって、彼女とその子一宮(田中偉登)に陰陽師として仕えることにする。持っていた解説のおかげで、彼のお告げは次々当たる。

 伊藤健太郎は「そこいらにいる男の子」を消化して、きちんと演じる。三吉彩花は演技指導のたまものか台詞回し(「~なことよ」などの「よ」)もトーンも正確だ。

 一番いい場面は雷が倫子(伊藤沙莉)と出会ってからの二人のシーンに集中している。お世辞にも綺麗と言いづらいはずの倫子が机の前から上半身をひねってこちらを見ている姿は、衝撃的にかわいい。もう一つのいい場面は自転車でぴゅーっとやってきて、説明台詞をそれと気づかせずいいまくって去ってゆく近所の人(LiLiCo)のとこ。ものすごくまずいのは家族のシーンで、形骸化した家族像をただなぞっているだけでとても退屈。後宮の女たちも印象に残らない。エンディングは、「そうなるよね」的な終わりで、ドローンが上がる間、変わらぬ距離で見つめあうのはおかしいよ。何よりも、弘徽殿の女御の存在が際立ってこない。白髪まじりになってからしか印象に残らない。よく使われる手法で話を纏めるなら、オリジナリティを出さないと。それは脚本の問題であり、演出の問題である。

赤坂ACTシアター 『NINE』

 透明で、皺の寄っているスクリーンが、客席と舞台を隔てる。この皺、この歪みが、客席と舞台をどこまでも遠ざけ、スクリーンにはACTシアターの客席が映る。スクリーンが揺れると、客席が湯気のように揺れる。蜃気楼。それとも幻。それとも映画。その向こうに、見世物小屋のような円形4段の客席がある。どっちが蜃気楼なのか。(彼らは幻?彼らは幻だ。私たちは幻?私たちは幻だ。)

 弔鐘のように鐘がなって、フィルムが回り始めた。

 映画監督グイド(城田優)は、新しい映画を作ろうとしているが、なかなか脚本が書けない。妻ルイザ(咲妃みゆ)を連れてベニスの温泉へやって来る。そこに彼の愛人カルラ(土井ケイト)も来てしまう。プロデューサーのラ・フルール(前田美波里)も現れ、書けないグイドを追いつめる。現実と地続きの幻の物語が始まる。

 舞台セットは考え抜かれ、大きな装置が稼働し始めた時、かっこよくてちょっと涙出た。幻想や思い出や現実や映画が複雑なパズルのように組み上がっている。女性アンサンブルの衣装が凝りに凝っていて、「新聞記者たち」として登場するときなど、目が足りないくらいである。主演の城田優は英語の歌をさらりと歌うが、この英語の歌の後に「クラウディア!」と日本語発音で呼びかけるのがとても違和感。土井ケイト最初のイタリア語もっとまくし立てて。咲妃みゆは芝居が大きすぎ(台詞が…台詞っぽい。仮想の大劇場みたい)すみれは芝居が小さすぎる。台詞言えてないよ。それじゃクラウディアの内実を支えられない。サラギーナ(屋比久知奈)の安定しない発声もまずい。こうした理由で、全体を貫くグイドが弱くなってた。どこにも難をつけることのできない俳優さんで、体格にも声にもハンサムにも恵まれているのに、芝居が軽い。「自己中心的で薄っぺらい」って台詞あるからかもだけど、もっと求心力を持て。

北沢タウンホール 伊東四朗トークライブ 『あたシ・シストリー』

 舞台の上がきゅっと、昭和で詰まってる。竹の庭門。物干しざおが竹のとビニールのと二段にかかる。ブリキのバケツ。上手の部屋には茶箪笥、その上に黒電話が乗っかっている。縁側の体(てい)で座椅子が四つ設けられ、ふっくらした座布団がある、と、なんかほんとにぜーんぶ昭和、しかし座椅子は皆アクリル板で仕切られてて、ここだけが令和。

 客入れの音楽は、「てなもんや三度笠」、「電線音頭」、「おしんのテーマ」などで、約10分で一巡する。もうちょっと長く編集してもいいんじゃないの。「てなもんや三度笠」、確かにすごくいい歌だけど(いい歌だった!)もっと振り返れる歌いろいろあるでしょ。

 幼稚園の頃、「てんぷくトリオ」はよくテレビに出てコントをやっていた。伊東四朗はちょっと控えめだったような記憶がある。戸塚睦夫が欠けて、テレビで三波伸介伊東四朗を見るたび、「あのおじさんはもういない」と、小学生なりにしんと考えたりしたものだった。今日はそのてんぷくトリオ伊東四朗、のヒストリーを顧みる「あたシ・シストリー」という企画だ。人々の記憶に残っているのは圧倒的に「ベンジャミン伊東」ってことになるんだろうけど、私にとっては「後白河法皇」。皺の翳まであの食えない貴人にみえた。あの役をあのように演じることができるまで、伊東はどんな道をたどってきたのか。玉川奈々福浪曲の語りで芸能界に入るまでをざっと辿る。このひと元筑摩の編集者だって。ピンク色ではないオレンジのうすーい色、もしかして洗い柿色っていうのか、袴をはいているけど、上下が揃い、同じ色。太棹三味線を肩からかけて(肩にかけてる布がお坊さんみたいに派手、)撥は鼈甲に見える。初めて見る芸能、初めて見るいでたちで、なんか(えええっ)となりました。浪曲かー。声張ってない所にきちんと声が「はいってない」感じがするけどいいの?いやいきなり文句でごめん。

 伊東四朗昭和12年6月15日台東区に生まれた。途中静岡掛川疎開したが東京に戻る。就職がうまくいかず、劇場に入り浸っていたところを石井均に見いだされ劇団に加わった。そして戸塚睦夫三波伸介で「ぐうたらトリオ」を結成したところで今日は終わり。まだ夜の部も明日もあるからって。ざんねん。配信があるそうだ。

 伊東四朗は学童服で現れた。引き戸を開けて覗くとこは、生き生きしている。11月10日昼の部のゲストは春風亭昇太だった。なんだかもう落語の会長なんだって。「若手界の大御所」と呼ばれていましたと、ちっとも偉そうでなくいう。腰軽い容子なのに重職って新しいね。伊東四朗と話し始めると、さん候承りましたってかんじできちんと面白い話をする。ここへ、伊東がさっと合いの手を入れるのだが、この合いの手がシャープ。面白いと思ったところはきゅっと捉まえ、自分にとって大して面白くない所は流し、実にいい按配で話を取る。70代までは年齢を考えなかったけど、80代になったら自分で思ったほど体に反応が出なくなったそうだ。確かに身体性はかなり落ちてる。でもこの話の切れ味、話題の拾い方の自在さは伊東の芸のたましいだ。志ん生が好きだといってたが、今まで見たいろんな人の志ん生のまねのうち、一番腑に落ちた。喋り方の真似っていうより心の真似、志ん生が自由な人だったその「自由」が、真似に出てる。

 いろんな話のうち、只で歌舞伎を見るため、上手の大道具搬入口からつーっと入って、下手の奈落へ続く階段を降り、花道の下を通って入り口へ出、戸を開けて客席に抜けるのが「こわかったねぇ」っていうの笑った。尾上松緑の楽屋を訪ね、自分たちの脚本を見てもらったんだって。「学生さんたち楽しんでおやりなさい、苦しんでやるのは私たちプロですから」かっこいい。

 てんぷくトリオと言えば井上ひさしが座付作者だったはず。いろんな話があるだろう。配信見ようかなあ。

東京芸術劇場 プレイハウス 芸劇オータムセレクション イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出作品上映会 『じゃじゃ馬ならし』

 まず、オランダで記録映像撮った人(と、今や全世界の演劇配信映像を撮るすべてのひと)にいっときたいのだが、ファーストシーンはあなたが考えている倍は大切なので、コマを割ったりしないでほしい。インタビューがかぶるとか最悪だ。まさにinvasionである。あ、英語使いました。ここはテーマとあってるから良しとする、とかなしでお願いします。

 侵入する侵襲する侵害するというのが芝居のテーマになっている。カタリーナ(Halina Reijn)は世界の侵襲に悩んでいる。街の喧騒から猥歌、ヘアスプレーまで、彼女を苦しめるものは後を絶たない。

 主人ルーセンシオ(Eelco Smits)の身替わりとして「男たち」に加わるトラーニオ(Alwin Pulinckx)は激しいハラスメントを受け、「自分であること」を侵害される。ハイネケンの箱は舞台に侵入し、家庭教師に化けたルーセンシオはビアンカ(Elise Schaap)のいるガラス張りの家に入り込んで彼女とうまくやる。ビアンカには求婚者が「殺到」し、トラーニオにはふざけ半分で男たちが「押し寄せ」、押し潰す。カタリーナは指を怪我するし、終盤観客席に向かって静かにしろとペトルーチオ(Hans Kesting)が虚実まじえて話しかけるシーンでは、現実がフィクションに侵襲され、芝居は現実に侵害される。苦しむカタリーナにペトルーチオは「食べ物」「眠り」を侵入させない荒療治を行う。おえっとなる場面の連続だが、野蛮で嫌悪感があるのに何故かぎりぎり品はある。役者が総て引き受けているからだ。だがやっぱり、小児的ですきになれない。どれも安易すぎる。

 最後のカタリーナの台詞は物語を収めるのにかなっているけど、表面だけ見ているとおえっとなる。侵入的だったカタリーナが、「宥和」「共調」を求めているみたいだ。これ、姿を変えた侵略だろか。

東京芸術劇場 プレイハウス 芸劇オータムセレクション イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出作品上映会 『オープニング・ナイト』

 三重の包み紙で包まれたがらんどうの籐製のボール(見た目セパタクロー!)の中に、赤いスーパーボールが飛び込む、という、人に説明しづらいイメージでこの芝居を観ました。包み紙は三重の現実、籐製のボールは主演女優ミルトル(Elsie de Brauw)、スーパーボールは事故死するミルトルのファン、ナンシー(Hadewych Minis)だ。籐のボールのようにミルトルはからっぽだ。それは今まで自分の問題を無いものとし、演じることで体の中を充たしてきたからだ。

 人間にとって避けられない老い、そして老いを巡る焦燥や疲労や恐怖が、ナンシーの死を目の当たりにしたことでミルトルにとりつく。(ここでまた残酷な演出がされ、舞台後方のガラスにナンシーの血がびしゃっと跳ねかかる。しかしあのくらい強烈でないと一瞬であのオブセッションを納得させるのはむずかしいよね)ミルトルは内側にナンシーを取りこんでしまった。狂気といえるものが彼女を襲う。体の中でスーパーボールが不規則に跳ねるみたいに。

 ミルトルのもう一つの問題は元夫で共演者のモーリス(Jacob Berwig)が、彼女を殴るシーンを演じきれないことだ。ここにも彼女が「からっぽ」ゆえのトラブルがある。ミルトルは元夫をどう思っているかをずっと棚上げにして生きてきたのだ。

 芝居の終りにニール・ヤングのHeart of Goldが流れる。Heart of Goldを探し求める「私」、探し求めながら「私は齢を取ってゆく」。メロディの中にはそのことへの肯定感があるような気がする。ミルトルとモーリスの最後のやり取りは、いままでスーパーボールだと思っていたものが、「黄金に変わった」と思わせるほど美しい。

 映像が多用され、舞台の構成が複雑で、私は筋が追えただけ、映像の総て、セットの総てを把握することはできなかったよ。