東京芸術劇場 シアターウエスト 『イキウメの金輪町コレクション』甲プログラム

 劇場のなかは壺だと、客入れの音楽が言っている。壺の中。壺っぽい、どぉんとくぐもって響く音。下手にカウンターがあり、中央にテーブル、ダイニングチェアが三方向からテーブルに向いている。上手に北欧風のソファ、小さなソファテーブルがついていて、その背後に木製のやっぱり北欧風のキャビネットが見える。キャビネットの上には、花の入った花瓶と、写真立て。

 3本のオムニバス「金輪町コレクション」の間、これら道具は位置を変えるだけで基本変わらない。これ…もしかして夢なの?幻想?この部屋のほんとの持ち主はだれか、考えてしまう。3本の芝居はサンドイッチのように重なっていて、どれか一つを選べないように見える。からしをよけて食べたりできないのだ。始まってすぐ違和感を持つのは、「脳」になってしまった父山田不二夫(浜田信也)の息子宗男(安井順平)が「アメリカ帰り」で、マスクもしてないし、アルコールで手をきれいにもしない所だ。「たったいま」とはずいぶん違う、遠い物語だなと思った。イキウメの芝居はいつも「いま」を撃つ仕上がりとなっているのに、ここ、書き換え可能だったんじゃないの?安井順平は深く落下してもそこに頑丈な安全装置がついているという安心感、大窪人衛は落下したらもう底なしだという不安感を体現する。今日の一話目「箱詰め男」の安井の演技はいつもに比べいまいちだった。箱詰めの父を受け入れられない→受け入れるまでの動揺がうまく物語りを光らせていない。丁寧でなかったよ。二話目の「やさしい人の業火な『懐石』」の、軽薄なコンサルタント辻(盛隆二)は、戯画化せず思うよりずっと常識人寄りに作ってあり、そのせいで話のいやらしさが倍増しになっている。あ、この壺の持ち主はこの芝居を観に来る「わたし」であろうと思ったような次第。三話目は続編が思い浮かび、金輪町地下の戦いを夢想した。

KAAT神奈川芸術劇場〈大スタジオ〉 『アーリントン [ラブ・ストーリー]』

 「管理する者」と「される者」、「監視する者」と「される者」に二分化された世界。分断が最高度に進み、ここには強者と弱者しかいないのだ。

アイーラ(南沢奈央)はその弱者側だ。ずっと監禁されていて、自分の年齢すらもわからない。彼女は従順に、何か恐ろしさを感じさせる番号札を取り、その順番を待っている。アイーラを今日から監視し始めた若い男(平埜生成)と会話するが、その男の顔も知らない。ついに順番が来た。彼女は脅えながらも、素直に進み出る。

 林立する、「弱者」を収容するタワーが、目の裏に浮かび、それが砂のように瓦解し舞い上がる。果てしなく白い墓標の広がる草地――アーリントン――のイメージが、「タワー」と、そこで静かに壊されていく者たちの無数の終りと重なった。「タワー」は壊れて、アイーラとそれを助ける若い男しかいないのか。それともここにはアイーラしかいず、男も、タワーも幻影なのか。誰が「居る」のかの位相が変わることで、芝居は万華鏡のように見え方が違ってくる。美しくぶれたまま、注意深く死について語らないために、空間全部が「永遠」に接地しそうになる。惜しいねえ。何といっても芝居がおどろおどろしすぎる。特に、前半がまずい。ラジオから出てくる音声(川平慈英霧矢大夢)が、「何の声」なのかがさっぱりつかめない。アイーラと若い男の会話の演出に丁寧さが欠け、やり取りの中心(ハート)が見えない。翻訳も硬い。前半にハートがないので、後半の怖さに神経がもたないよ。南沢奈央、前よりよくなったけど声が上ずりすぎている。いない相手を見る時、視線は、「キメ」るべき。平埜生成、テーブルの上のものをばーんとどけるシーンの手際が良すぎて、これも心が見えないです。

東京現代美術館 『石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』

 胸に沁む落ち着いたトーンで、石岡瑛子の声が会場に降ってくる。「…デザイナーがかっこいいっていうものを見てみるとなんかツルツルピカピカ、表層的にただきれいなだけで中身はからっぽみたいに見えるんですよ。」血の出る思いでデザインしてきた石岡瑛子のあれやこれ、石岡の軌跡を辿れば辿るほど、そこに「血」「汗」「涙」が流れているのがわかるのに、作品から目を離して次へと移るとき、そこで心に浮かんでくるのは ピカピカの時代にツルツルの世界で活躍したひと という印象だ。

 石岡が資生堂に入社して最初に賞を取った、紅く透きとおる石鹸を鋭利なナイフで切って見せた広告の撮影前日、彼女は石鹸を冷蔵庫に入れた。たぶん、ツルツルになるまでピカピカに磨いたのだろうという。一心不乱に「ツルツル」を目指した日々から経験と実績を重ねて、石岡はそれではだめだと思うようになっていく。それは広告とのお別れを意味していた筈なのになー。そして、すべてを引き受ける「演出家」や、「監督」になるべき人だったのになーと、他人事だけどなぜかとても残念に思う。特に『MISHIMA』のヴィジュアルイメージ、造形の一つ一つが、つよく撓めたねばる大枝のように力を持っているのを見る時――二つに割れる黄金色の金閣、華奢なふすまの壁に囲まれて謀りごとをめぐらす若者たち――この作品がきちんと上映されていれば、彼女の人生も変わっていただろうとおもわずにいられない。

 彼女の作品には何かが欠けている。何かが過剰だ。自分を表わす、曝け出すということがない。にもかかわらず怖いほどの美しさがぴかぴかと溢れ出している。彼女はモチーフに寄り添いつづけ、なかなか本心を明かさない。それは広告で石岡が培った生き方なのだろうか。

本多劇場 『東京原子核クラブ』

 ひとりひとりの芝居が、飛び出す絵本みたいに、開いた途端、こちらの手を圧して扇形に広がる。ぎっしりだ。

 特に、東大野球部エチオピア文学専攻の橋場大吉(大村わたる)が、野球部の友人林田(石川湖太郎)に頭を下げるシーンでの大村の芝居の精度はすばらしく、帰り道も橋場を思い出すと心が粟立つようだった。ぽつんと鳴らす名手のピアノみたい。若手の理論物理学者友田晋一郎(水田航生)の青春記が、昭和初期の下宿屋「平和館」を舞台に展開する。わらえて、かなしく、つらい物語だ。

 けどなー。話がぜんぜん弾まない。筆記具に蝋版ってあるでしょ、表面の蝋に傷つけて字を書くやつ、あれの滑りが悪い感じ、フィギュアスケートのスケートが進まない感じ、蝋の下の板や、氷に跡がつくような奥へ食い込むシリアスな芝居はとても優れているのに、表面のやり取りが暗い。重い。湿気てる。ライスカレーとか、のろくて残念なやり取りだった。西田先生(浅野雅博)の犬のシーンも、笑えない。ライプチッヒ帰りの友田を演ずる水田は、どの位嫌な奴になるか探り探りやっている。ここがも一つピシッと決まらないのと後半の氷にスケート靴食い込ませるところ(物理学者としての述懐)が肚に落ちてない。

 下宿の娘桐子(平体まひろ)、いわゆる「娘声」ではなくお腹から声を出す一人の人間としてあらわれていることに好感を持った。芝居が進むにつれ彼女は成長し恋をし、「わかりませんよ、わたしには」という大人の台詞も言うようになってゆく。平体のリアリティの重石で、日本の原爆開発という被害の中にある加害も、照明弾で照らしたようにありありと見える。

 霧矢大夢、芝居に折り目が付き挙措が正しいが、心持ちサイズ小さ目に演じた方がよかないか。これ、コメディリリーフじゃない?

東京芸術劇場 シアターイースト 二兎社公演44 『ザ・空気 ver.3 そして彼は去った…』

 私と同世代の人、上の人、下の人、皆、学校で勇気を問われたことはないだろう。そんな世の中だった。勇気がなくても生きてきた。勇気がなくても生きていける。忖度忖度とみんなが言うけれど、問題の核心は忖度なんかじゃない。勇気である。勇気というと蛮勇のように思われてきたのだと思うし、出番もなかった。けど、それが必要な場面がたくさん生まれてきちゃってる昨今の、最も尖った現場が、永井愛の『ザ・空気 ver.3』で扱われている。テレビのニュース報道番組「報道9(ナイン)」に、政府べったりの政治評論家横松(佐藤B作)がゲストコメンテーターとしてやってくる。この日、チーフプロデューサーの星野(神野三鈴)は異動前の最後の一日を過ごしていた。「奴隷」のように10年働いてやっとチーフディレクターになった新島(和田正人)とその後輩のアシスタントディレクター袋川(金子大地)は伝令のように二人と番組の間を走り回り、サブキャスター立花(韓英恵)は報道に意思決定権のある女性がいないことを嘆く。横松が意外なことを言い出し、舞台はまさに登場人物――星野――の勇気を問うものになってゆく。

 皆思い思いのマスクをして、体温の話をする冒頭から調子よく笑わせる。5人しか登場人物がいないのに、ここはたくさんの人が働く場所、そして、傍目には何階の何の部屋だか見当がつかない迷宮のように見える。しかし、役柄一人一人がいろいろな矛盾を背負わされ、それを体現することにいっぱいいっぱいで、その人にしかない深み、謎のようなものが欠けている。佐藤B作、客に好かれようとしすぎている。横松は、光が中で複雑な屈折を起こしているプリズムのような存在だ。当たる光線も一種類ではない。或る時は「落とし穴」のように見えてほしい。和田、金子、韓、ソツがなさすぎ。脚本のせいだね。

ユーロライブ 浪曲 『玉川奈々福 ぜ~んぶ新作 新作フェス!! #3』

 信濃の山路木隠れに

 聞くは御堂の明けの鐘

 はるかに見ゆる浅間山

 燃えて身を焼く、

と、メモして顔を上げ茫然とする。眉を寄せて考える。情報が多すぎて自分の外に零れてるのを感じるのだ。鶴見俊輔って、零れてるものを大切にする人だったなあ。東大を頂点とする教養主義を信じてなくて、こういう、教養主義、洗練から遠く離れた、地面から生え出た芸能を評価していた。そう考えると今私が受け取ったものでなく、零れているものこそ大事?それはなに?

 あのー、『丹下左膳百万兩の壺』(1935)で、「うーん」って唸っている「虫の息」の人が出てくるんだけど、それが迫真の死にかけの息で、あの明るい話をほぼ壊しそうなくらい。でも役者そのひとが「死にかけのひと見たことがある」という「地べたの気配」がある。東家三可子の馬子ジロクは、お伽噺のようにあっさり死ぬけどいいのかな。あとジロクが「ナレ死」っていうか語りの中で死んじゃうから驚いた。東家三可子、地下アイドルよりかわいくて、CAさんのようにきりっとしている、あごや頭が共鳴して、カーンと声が前に出ている(マイクあるけど)。青や緑やピンクの点々のとんだ着物もよく似合っていて品がいい。最後はもっときちんと、余韻を持ってお辞儀をしてほしいような気がする。そこまで演目の一部だろ。絹のテーブルクロスみたいな布が演台にかかってて、薄いオレンジの東家三可子のものがさらりとはがされ、蓮に金魚の玉川奈々福のそれになる。

 上手側の椅子に、曲師と呼ばれる三味線が座る(沢村豊子)。着物が乱れないよう、膝の上を10センチくらいの幅の布で固定する。玉川奈々福が声を出した途端吃驚した。聴いてるこっちの肺の戸障子がびりびりするくらい声が出る。演劇なんかで声を相手にあてる練習するけど、それを楽々と超えてる。

 ひとつめの話は、『赤穂義士外伝』、事情通の瓦版屋のおばあさんが主人公。ババア・ザ・フェイクニュース・メーカーって言ってたな。ばばあ。どうなの。ばばあも範囲が広いよね。30代以上の女の人や、おばあさんが主人公の話って少ないよね。ミス・マープルとか、『シカゴよりこわい町』の牛乳瓶にネズミいれたりショットガン撃ちまくったりするおばあちゃんくらいかな。あんなふうに活躍する人に、おかねさんがなったらいいと思う。

 二つ目は野田秀樹改作の『研辰の討たれ』を奈々福が翻案したもの。最後のひとことがよくできました、と思った。

 浪曲は語り物だから啖呵が芝居の台詞みたいになっちゃいけないらしい。ちょっときゅうくつ。『研辰の討たれ』も、ちょっときゅうくつそうなんだよね。三味線二挺と鳴り物入りなんだから、もっとのびのび、やりたいようにやればいいのに。曲師の奈々福にあわせる横顔が、奈々福の浪曲をおもしろがっているように見える。玉川奈々福、もっと面白がれ。

東京芸術劇場 プレイハウス Sky presents 『てにあまる』

 単線の手漕ぎトロッコに乗っていたら、いつの間にかぴったりと球の中に閉じ込められていました。と思って観終わった。すごく面白かった。この芝居を面白くしているのは、まず登場する俳優たちの誠実さである。IT企業の社長鳥井勇気(藤原竜也)、離婚したい妻緑(佐久間由衣)、鳥居の忠実な部下三島(高杉真宙)、そして謎の男佐々木(柄本明)。離婚、傾く会社の経営、トラウマ、勇気のフラストレーションと怒りのテンションは、立っている場所から天井を突き抜けて、なにか「気」が出ているように高い。藤原は決して手を抜かずそのテンションをたもつが、その激しさに佐久間も高杉も、弾き飛ばされそうになりながら全然諦めないでついてゆく。ここがいいよ。特に佐久間は藤原の芝居を浴びながら対等に怒りを表現しようとする。初舞台の声は小さすぎ、怒りのスケールもミニだ。しかし数珠玉のように真面目に感情をつなげ、自分の足で立っているところ、私はこの人の将来を買うね。ただし、いっぱい芝居に出たらだけどさ。高杉真宙はそれよりも難しい役である。鳥居を父と思い従順なのだ。複雑な単線、いつの間にか何度も運転者が変わるトロッコ(物語)だけど、高杉の芝居は没入していて献身的だ。けど、鳥居の怒りに巻き込まれ過ぎじゃない?藤原の芝居はテンションで驚かされるけど、ちょっと単調。血管キレそうと思いながら観客が眺める時間が長すぎる。ヴァリエーションが必要だ。最初に勇気に向かって佐々木が過去のことを説明するとき、柄本明の目が寄っているような気がする。佐々木が勇気と同じ道にいるというと観客の私はそれを「疑いなく」「信じて」受け入れ、佐々木はメフィストなのだという自分の説明に納得しそうになる。この芝居は油断がならない、だって最後は、これが誰の動かしているトロッコなのか、急にわからなくなるのだから。