シアタートラム 木ノ下歌舞伎 『義経千本桜――渡海屋・大物浦――』

 歌舞伎役者じゃない人が、「歌舞伎をなぞり、演じている」って、結局、どういうことなのかなー。と考える。歌舞伎の無二の型を、絶対的光明として近づく?正解を求める?そうじゃなかろ。「たったひとつ」を囲む無数のぶれ、幾百幾千の軌跡を追いかけるってことではないだろか。

 この芝居でいうと、すべては「無念を表現する」ところへ通じている。この無念がなー。ちょっとライト。まず保元平治の乱の親子おじ・甥の殺し合いを急ぎ足で説明し、平清盛(三島景太)は真っ赤な「盛者不衰」という着物を羽織っているけれど、そしてその着物を希望の星安徳帝(立蔵葉子)は重ね着させられるけれど、もひとつ、念が残らない。ぞっとする感じが薄い。知盛(佐藤誠)が薙刀を差し上げ鳥居の形を作るまでもないじゃんと思う。浄化するほどの念がないよ。知盛自身の残念も、日本の古層の「念」に届いてない。声嗄らさないで。もう一人典侍局(大川潤子)は「戸障子をあけ」てから好演するが、なんていうか、早々と「あきらめちゃってる」。諦めたらだめさ。残念じゃないとー。

 その無念、悔しさが時代を越えて引き継がれ、無言のまま「私たち」を取り囲む、終盤の演出は水際立って鮮やかである。魚尽くしもたいへんよかった(夏目慎也、武谷公雄)。

 勝者であるはずの義経(大石将弘)が、敗者でもあり、とても矛盾した多義的な存在であることが、あまり触れられずじまいだったかなあ。とにかく、前半。無害そうに架けられた弛んだ日章旗から、源平の権力者が背負う日の丸へ、そして疲れ歯噛みする知盛の袖にぼんやり浮かぶ旭日旗まで、飛躍する力、「ため」が欲しい。古い着物って怖いから、キモノ古くてもよかったかも。

PARCO PRODUCE 2021 『藪原検校』

 打ち棄てられた工場、或いは廃屋に工事の赤色灯があって、黄色と黒の安全綱が上手から下手にいく筋か張られる。上と下、内と外、と思いつつ、マスクの下で(うーん)と唸る。まず市川猿之助が、パンフレットで杉原邦生を「君付け」でよんでるところで「ん?」となり、杉の市(猿之助)が楽々と惜しみなく歌舞伎の引き出しからいろんな技を繰り出しているのを見て、安全綱が足に絡んでばったり倒れる。歌舞伎の間合いというのは素晴らしい。この芝居にもよく嵌ってる。でもさ、一か所猿之助の間合いが外れてて、それは大詰めの母の名を呼ぶとこである。その前の、孤独、けっして「内」に入れてもらえない「外」の者の慟哭がうすいんだよー。技術が高いと事がすらすら運ぶ。歌舞伎座に歌舞伎を観にきてもらう導入にはいいと思うけど、杉原演出で猿之助主演の「この」芝居を「今日、たったいま」観るのなら、「今」感じた「今」の「てがかり」「引っ掛かり」がほしいです。

 人間の二面性を表わして、極悪の杉の市と大学者の盲人塙保己一三宅健)が互いを喰いあう蛇のように現れる。三宅健、声、口の中の前庭(?)しか使ってないよね。喉奥のどこかで止めてて、全身に響いていない。挙措、身体の重心(静まっている!)、品性はいうことないのに、声を聴くと首ががっくりうなだれる。芝居が進むにつれ喉が開いてきたので最初からがんばれ。この芝居、マイクの音量が大きすぎ、出だしの盲太夫川平慈英)の息遣いがかっこよく聴こえない。あそこでまずちょっとがっかりした。

 幕切れは「外」に観客を置いていく。集中を切らさず孤独な男の一生を追うことができた。杉の市とお市松雪泰子)の濡れ場、もっとコンパクトに、笑えるようにできないの?『かねはふね』とてもいい歌詞だった。みのすけ、もっとうまく歌えるだろ。

東京芸術劇場 シアターイースト 劇団チョコレートケーキ 第33回公演『帰還不能点』

 ぽん、と舞台に小さくスポットが当たり、芝居が終わる。拍手しながらぶわっと涙がこみ上げているのであった。よかったよ。お疲れさん。とか、私、あまい。この作劇は、あますぎるもん。

 昭和25年、日本の敗戦から五年後の夏、一人の男の死を悼み、一団の男たちが縄のれんの一杯飲み屋に集う。彼らは戦前の省庁のエリートである。三十代のとりわけ優秀なものたちが集められ、対米戦の可否を分析したのだ。戦後散り散りになった9人が、一夜の座興に日本が負けると決まり、引き返せなくなるまでを寸劇で演じる。東条英機近衛文麿等、何人かがかわるがわる同じ役を務め、日本が深みにはまっていく様をシンプルに要約して見せる。長期化したシナ事変が、肉に食い込んだ取り除けない銃弾のように、疼き、暴れ、帰還不能点へ国を追い込む一因となるのが興味深い。

 中盤で芝居は一転、男たちの悔恨――国が敗け、多くの人が無残に殺されない道を、一個人として自分は模索すべきではなかったかという問いが問われる。ここが!だめだよ!一高帝大やたたき上げ、敗戦があったとはいえ、省内にそのまま残っているような「うまくやった」人の心の変化が、わずかこんだけの間につるっと訪れるとは、私には到底思われん。深みが足らん。戦争で受けたいろんな人のいろんな傷、その闇の深さを思う時、そんなに簡単にいいはなしにならないだろとつっこまずにいられない。能力ある(如才ない)男の心の変化に焦点を絞り、傷を拡大し、もっと時間をかけて描かないとだめでしょう。役者はみなきっちり演じるが、誰が誰だかわからない。めまぐるしく役が替わるからだ。しかし、そのことによって、誰もが失敗につぐ失敗を重ね、死を選ぶ「近衛文麿」でありうるのだということがはっきりする。

本多劇場 悪い芝居vol.27 『今日もしんでるあいしてる』

 「アレのせいで旗上げ以来はじめて本公演のない1年を経て」(チラシより)。

 ねえ、その1年の間何をしていたの。もちろん生きるために働いたり、ショックだったり辛かったり大変だったりしたのだと思うけど、身体鍛えたり発声練習したり滑舌頑張ったりしなかったの。

 そこが一番謎。客演の井上メテオに、小麦粉とキャベツ運ばせて、ワンシーン丸ごと預けている。それは…勇気ありすぎじゃない、山崎彬?彼が何か言うたび、刑務所帰りの逆井祈子(サカライキコ=潮みか)がにっこりする。ここんとこ、私は根本的に間違っていると思う。なぜって井上は面白いこと、共感できることを殆ど全く言ってない。ここで笑ったら、逆井と潮は、舞台上で自分と観客に「嘘をついている」ことになる。嘘。嘘の上におうちは立たない。演劇だっておんなじだ。あと、関西弁の必然性が感じられない。関西弁で喋ると、面白くないこともそこそこ耳ざわりよく聴こえる。ここ、考えてほしい。

 ハートブレイクウィルスという伝染病のはびこる近未来、九木大(ココノキダイ=牧田哲也)と死んでしまった妻儚(ハカナ=文目ゆかり)の三十年余りが語られる。芝居の芯は心がキレイだけど、構成がわかりにくく整理されず伝わりづらい。1時間たったところで粟根まことが何者であるかやっとわかる。(粟根の笑顔がすこし「嘘」っぽい。)中では、「電子レンジの時間」が凄く面白いと思った。客席にも舞台にも、等しく流れる共通の時間である。このたくさんの客演陣、山崎彬は才能もあり「いいひと」なのであろう。早稲田の大隈講堂裏テントで、第三舞台を初めて観た時のことを思い出した。

 とにかく、「嘘」と「関西弁」について本気で考え直してもらいたい。深く考えること、発声滑舌訓練が劇団に大きく不足している。

東京芸術劇場 シアターウェスト 『イキウメの金輪町コレクション 丙プログラム(節分祭)』

 んー?甲、乙、丙、三つのプログラムで一番落ちるかな。全体が、金輪タウンFMの持田喜美(瀧内公美)の司会する、金輪町節分祭になってるとこはいい。インタビューで「今年の鬼」として人物紹介されるスーパーコタヤ店長桜田文子(松岡依都美)が、『賽の河原で踊りまくる「亡霊」』で鬼をつとめるのもよくできた。だって、タイタニックの胴体に氷山が食い込むように、金輪町の現実と芝居が組み合っているように見えるもの。

 コント『インタビュー』は明らかに前川知大のものでないとわかる。作家(森下創)のファンだといいながら、まるで作家の事を知らないような相槌を打ち続けるインタビュアー(浜田信也)と腰の低いカメラマン(大窪人衛)。作家との間の齟齬を描く。この齟齬が浅い。歯車のかみ合わせが甘い。しかし、それもこれも節分祭だということで説明がつく。ここがなー。(因みに腰の低いカメラマンが笑顔でちょっとカメラを持ち上げて作家に見せるところ、よかった)

 やっぱ問題は前川の書いた落語がつまらないってことだと思う。特に前半。客の興味を惹きつづけることに失敗していて、観客が突然、手遊びする小学3年生のようになってしまっている。「落語ってこんな感じ」と前川が思ってる「こんな感じ」がつまらない。あと柳家三三に遠慮したのか二重の時間(金輪町住人と落語家)をきちんと提示できてない。インタビューないの?柳家三三古典落語の人なので(だからなのかなあ?)、現代ものと落語が、やっぱりタイタニックに氷山がぶつかったようになっており、こっちは失敗している。70代の引退した医者が、落語のおじいさんのようには喋らないだろう。笑えたのは近所のおばちゃんたちの噂部分。ざんねんな出来であった。

東京芸術劇場 シアターウェスト 『イキウメの金輪町コレクション 乙プログラム』

 梵字の大きく入った提灯が、小さい屋根のついた柱の下におさまり、おばけ提灯を連想する。「賽銭」と書いた箱と二人の人物が、上手(かみて)に照らし出される。

 うさんくさい。笑う。真面目な顔をしている真田(大窪人衛)と古橋(盛隆二)は仏教の「研究」者で、今しも下手(しもて)に立つ佐久間一郎(安井順平)を「来世を覗き見る」タイムマシーンに乗せようと説得中である。佐久間には、詳しくいわないけど込み入った事情があり、柔らかい筆ペンのような芝居で輪郭が縁どられ、品もある。「あっそうなんだふーん」とあっさり来世を受け入れるところもいい。なぜそんなに来世に拘るかは次の『ゴッド・セーブ・ザ・クイーン』で明かされる。この構成はいいよね。私が「短編」「オムニバス」「SF」が苦手なのは、「新奇だけど話がどこへもつながらないですぐ終わる」からだもん。松岡依都美の演じる自殺志願の神埼は、いまいち芝居がごつごつしている。いつの間にかつりこまれてクライマックスに運ばれないと、やなかんじの「死にたい動機」が目立っちゃう。ゆるさないゆるさないといい続ける「佐久間一郎」(盛隆二)の登場する『許さない十字路』は、神埼の振る舞いと全然カンケーなさそうでカンケーしている。

 『賽の河原で踊りまくる「亡霊」』が、長い。途中で、(どうしてこんな責め苦につきあっているのかなあ)と考える暇がある。賽(実はダンボール)を各人で「創造的に」積めとかいう課題が、まったく芝居の稽古みたいだった。鬼(安井順平)が演出家、亡者たち(大窪人衛、盛隆二、森下創、浜田信也)がそれぞれ俳優である。と、勝手に見立てをしたおかげで、安井の俺は味方で敵だという台詞で笑えたけど、段ボールが手間取る。先が読め、すこし退屈。

Bunkamuraザ・ミュージアム 『写真家ドアノー/音楽/パリ』

 パリの心臓のすぐそばに、じめじめした湿っ地があって、その水気の多い泥の中から、ねじれたほそい茎を伸ばして白い花が咲く。――流しのピエレット・ドリオン、パリ1953年2月。

 まるで湿気で湾曲したように見えるアコーディオンを肩にかけ、コードを押さえて誰かを見つめている。(それは相棒の歌手マダム・ルルだろうか、)流行の眉が、大きく、吃驚したように弧を描き、首に巻いた薄色のスカーフや、手前に立つ人物の厚手のコートが、2月のパリの夜の寒さを伝えてくる。いくばくかの小銭を得るために盛り場をまわる彼女を映した映像も残っていて、そこには若い女であるピエレットの年相応の笑顔も収められているのだが、ドアノーのピエレットは決して笑わない。この一連のピエレットの写真には、今日見たドアノーの写真の中でも、何か特別深いもの、口で言えないものが写っている。ピエレットの顔は美しいともいえ美しくないともいえる。少女のように見え、青年のようにも見える。羽根を背負った天使であり、寒さに耐える一人の女である。一言でいっちゃうと、ここには謎が写っている。スフィンクスのような謎、パリという謎だ。ピエレットの丸っこい手から、にごった和音が響き続ける。こんなところまで、ドアノーはパリに肉薄するのに、有名歌手を撮り始めると、とつぜん音楽は消え、魔法が失われたかのように感じられる。「ジュリエット・グレコ」「イヴ・モンタン」、見る側が「知ってる」ことが、なんか残念、なかなか重い命とりである。

 ピエレットが無遠慮に鳴らすアコーディオンの音は、「パリ祭のラストワルツ、パリ1949年7月14日」にも微かに聴こえた。真夜中、「小さな男」とスカートを翻して踊る女、何か少し謎めいたものを感知する。私の中ではこの二枚の写真が白眉、モーリス・バケとの実験写真は、全然趣味が合わなかったのだった。