日本青年館ホール 『スマホを落としただけなのに』

 上手(かみて)、下手(しもて)に向けて段々が高くなる二つの階段状のセットも、その上の平場の二脚ずつの椅子も、中央の机も、出入り口も背景も、あらゆるものが白い。そこに青い光があたって、今舞台にある全てのものが、ほんとは透明なんだといいたそうだ。電脳社会。何もかもに、手で触ってこうだよと差し出せるような実体がない。それは愛もおなじだよね。

 まず、原作は大きく改変されている。好もしい方向へだ。「どきどきはらはら」のための「熊いじめ」のような「女の子いじめ」が少しあっさりしている。(しかし、風俗嬢まゆ《北村由海》が、「家族のために働いている」っていうのどうよ。そういう正義、そういう正当性って、有効?そこが疑問)それから、時系列が変えられ、追う者と追われる者のコントラストが際立って、鮮やかだ。(だけど令和《頭脳》と昭和《体》の対照、ギャグがうまく働いていない。クールすぎる衣装のせいもある。つめたーいふかーい泉に、可笑しい台詞がまっさかさまにさびしく沈んでいくのが見えた。)

 連続女性殺人事件に関して、容疑者(浜中文一)が事情を訊かれる。男と対峙し、その犯罪を暴こうと、サイバー犯罪追及に秀でた捜査官加賀谷(辰巳雄大)を筆頭に、神奈川県警は解明を急ぐ。感情の希薄な加賀谷は、次第に自分と容疑者との濃い共通点を感じとる。加賀谷はアスペルガーだ。アイドルならばこの芝居で正解。しかし、浜中文一が自分のリズムでよくわからない男を創造しているのをみると、辰巳もアスペと関係なく、「癖」のある男(それは首の曲げ方でも鉛筆廻しでも、何でもいい)を創りだす必要があった。また芝居自体が面白くなるのが「おそい」。キスを連写する演出、かっこ悪かったよ。ここのホール、音がくぐもるの?浜中文一の前半の台詞、聞き取りにくかった。早川聖来、佐藤永典、発声頑張ろう。

日本橋TOHO 『アメリカン・ユートピア』

 ディヴィッド・バーンが、机を前にして椅子に座る。カメラはその映像を真上から撮る。ディヴィッド・バーンは両手をきちんと机の上に出している。手の間に脳の模型がある。カメラが切り替わり、彼は模型を左手に取る。

 ディヴィッド・バーンが「脳を見せてくれる」。説明をする。吊りさがった細かく長い金属のチェーンで、頭蓋のように仕切られた舞台に、「右脳くん」「左脳くん」とでも呼びたいような二人組のダンサー(クリス・ギアーモ、テンデイ・クーンバ)が飛び込んでくる。男のように見えるほうは濃くメイクをして、女のように見えるほうは耳の上の髪をそり上げ、トップに長い髪を盛り上げてヴォリュームを持たせている。二人ともバーンと同じグレーのスーツを着ている。着こなしも同じだ。この二人はバーンなのだ。そしてその踊りは――切れ味のいい厳しく揃ったダンスだが――ディヴィッド・バーンの身体の癖、普段の所作から来ていて、ディヴィッドがじぶんらしくちょっと膝を遠ざけた形が、ダンサーによってコピーされ、この場所、この光る雨のようなチェーンの内側で踊りとなって生まれてくる。ディヴィッドの身体の可動域がダンスを統率する。だってこの場はディヴィッドの場所なのだから。MCでディヴィッド・バーンは赤ちゃんの脳の中の繋がりは大人より多い、残った繋がりがどんな人間になるか決める、と話す。「ぼくの心配をしないで/ぼくも心配しないから」と歌いながら舞台上に明かりで出来た市松模様を、やっぱり同じスーツのキーボードとタンバリンが一緒に移動してゆく。曲が進むにつれバンドの人々(=ディヴィッド・バーン)は増え、音楽はかっこよく、踊りは激しくなる。途中にダダイストの曲を挟みつつ、ここは何でもありの自由な脳内で、同時に一人の頭脳という限定された孤独な場所であることがわかる。ディヴィッド・バーンは繋がりを求める。選挙に行くこと、他人に呼びかけること、理不尽に無慈悲に殺された若い黒人の人々に連帯を示すこと。牢のチェーンは最後に取り払われ、ディヴィッド・バーン(たち)は会場を一周する。一人が一歩踏み出すこと、そこにしかユートピアの可能性はない。

 ノンポリ人生をディヴィッド・バーンを聴きながら送ってきたので、尖鋭的すぎるように感じてしまう。この舞台の演出は誰なのか?あと、ディヴィッド・バーンのような自転車が欲しいな。

新橋演舞場 新橋演舞場シリーズ第7弾 東京喜劇『Jazzyなさくらは裏切りのハーモニー ~日米爆笑保障条約~』

 「そんなんじゃないから俺たちの笑いは」

 これまで3回熱海五郎一座の芝居を観たけれど、今日のはこんな声が聞こえてきそう。まず、角ばった五輪マークのある持ち運び卓を、首から提げた外国語訛りの男が出てくる。スーツだ。演じるのは深沢邦之である。この人バッハ?コーツ?眼鏡をかけてないし訛りはとてもステレオタイプ。出演者の紹介をする。エッジィなところ、ほんとに行かないな。「そんなんじゃないから『笑い』ってものは」まじで声が聞こえるよ。四コマ漫画のような落ちで暗転し、暗転前はいつも面白い。けど、観ていて、この落ちが、「熱海五郎一座」より「新しい」。たったいま、息をしている。現代性がある。熱海五郎一座が平熱36,5℃だとすると、落ちは35,9℃くらい。演出は、平熱を下げるか巧くつなげるか、どっちにしろ「変わる」必要があるんじゃないの。

 日本が太平洋戦争に勝ったことになっているSF(?)で、アメリカの半分を日本が占領するという。日系アメリカ人がジャズバンドを組んでいて、国と国との策謀に巻き込まれる。荒唐無稽。第三稿くらいで(五稿まで作ったのだそうだ)やめとけばよかったのにねー。(これ、ヘイトじゃない?)という笑えない場面はなぜか五稿までしっかり生き残っている。丸山優子の演歌歌手は上出来だが、訛をもっと深堀りする必要がある。それは深沢邦之も同じ。ジャズの生演奏は、「発表会」みたいだった。見事やり遂げ、よかったねと見ている方も思うのだ。小倉久寛の「踏み絵」のシーンの身体性素晴らしい。紅ゆずる、物凄いポテンシャルのある人だが、締めるところを締めて。面白いことを「やりすぎない」。横山由依も無難に演じるが、「皆さん抵抗するのが怖いんです」の前にある間が長すぎ、客の私の方が怖かった。

MANDOLIN 『FROM THE REHEARSAL ROOM:TOKYO』②

 ラミン・カリムルーとハドリー・フレイザーが、東京のリハーサルルームから配信で歌を届ける第二部。

 最初の一曲目は『ラ・マンチャの男』から「The Impossible Dream」をデュエットした。かわるがわる歌い、[ And I know…] から高音をハドリーが、主旋律をラミンが歌う。高音のファルセットは美しく、主旋律は力強い。何より大仰じゃない。フランク・シナトラのバージョンとか、荘重だもん。きちんと今風。二人でハモるとき、一つの声が、きれいに二つに裂け、離れていくように聴こえる。

 仲のいいミュージカルスターでも、その役へのアプローチは全然違う。ハドリー・フレイザーは、役柄の場所まで行き、「その人」と化す。そのことは次に歌った「Again」でよくわかる。目の前にいる女の人を愛していて、君の恋人はラッキーだねなどというのだが、思いが抑えられない。でもナイスに振る舞おうとする男、になりきっている。これに対してラミン・カリムルーは自分の方へ役をよびこむ。どちらがいいとか言えない。役の作り方が違う。ラミン・カリムルー、途中段取り忘れちゃってた、気を付けてほしい。

 先週歌った『レ・ミゼラブル』の「Stars」を、今度はラミンが歌い、「Bring him home」をハドリーが歌う。ハドリーが歌うと暗がりに光るものの輪郭がはっきりし、ラミンが歌うと深くやわらかい闇が見える。ハドリーの「Bring him home」に清らかな光を感じる。ラミンが譜が読めないとさらっと言ってて、そうだこの人独学でここまで来たんだなあとwikiを思い出す。すごい人だなあ。すごく感心してたのに、「ハッシャバイマウンテン」、途中二人の歌いだしがずれてたよ。しっかりね。途中、雑談みたいにバランスが大切と二人とも言っていた。わたしすんごいバランス悪いんだけど、どうしましょう。

東京芸術劇場 プレイハウス NODA・MAP 第24回公演『フェイクスピア』

 神の言葉はひどく遠い。

 「FAKESPEARE」という、一種の看板が、舞台の頭上高くかかっている。誰にも聞かれない言葉 を射程に置きつつ、芝居のことを考える。誰かが泣きながら語る、すると客席の私たちはその言葉を聞く。誰かが独り言をいう、やっぱり私たちはその言葉を知る。舞台で起きることはいつだってフェイクである。リア王を気の毒に思い、オセロの激情に慄える。フェイクスピアでは舞台――幕――の上での出来事が、次第にリアルに向かって手を伸ばし、「リアルの再現」を通じて現実と入り混じっていく。

 例えば「義経千本桜」の知盛の最期には、観客の時間と知盛の時間が同期する。客は死の準備にかかる知盛を固唾をのんで見守る。フェイクを見守る眼差しがひどく下世話なものに感じられる。その眼差しはフェイクスピアにもある。それって是か非か烏か、考えちゃうなー。

 憑依女優白石加代子の目の前で、次々に憑依していく男、楽(たの=橋爪功)とmono(高橋一生)、このシーンが素晴らしく、もっとずっと見ていたい。白石加代子の『声』が、この場を統べる。伊原剛志川平慈英、好きにやればいいのに、おとなしいな。「神の使い」「イタコ」「星の王子さま」、メタな構造がうまく働いていない。拮抗していないのだ。「伝説のイタコ」前田敦子は、がむしゃらに大声を出している。そうだね、まず大きい声が出ることが大切だ。品があるとかないとかいうのはそのあとの話だ。星の王子様の役が一番しっかりやれていたと思う。ついでに言うといつか見た映画の「おばちゃん」の役はあれは演技ではない。演技のフェイク、ふりである。

 あと、題材が題材だから恐る恐るいうけど、私は芝居に恐れ入っていない、題材に頭下げてる。

MANDOLIN  『FROM THE REHEARSAL ROOM:TOKYO』

 (ミュージカルの『レ・ミゼラブル』観たことない…。)弱気になりながらアメリカの配信サイト「MANDOLIN」をチェックする。5月22日朝9時から、ラミン・カリムルーとハドリー・フレイザーの『ザ・リハーサルルーム』を聴くためだ。今日がパート1、29日朝九時からがパート2、合わせて40ドル25セント(手数料込)だ。ドル?とちょっと海外旅行気分だよ。

 白黒の映像で、マスクをしたラミンとハドリーが映る。大きなヴァンに乗り込み、ハドリーが珍しそうに東京の町を指さしている。

 カラーになったラミン・カリムルーは丸首の黒シャツに銀のペンダントをして白っぽいパンツ、ハドリー・フレイザーは黒のドレスシャツと黒のパンツで、左手の時計と指輪がきらっとしている。

 この配信を見て、「声の芯」ということを考えた。ラミン・カリムルーも、ハドリー・フレイザーも、手が切れるように歌がうまい。音程は正確、声はまっすぐ矢のように届き、体全部に共振する。ハドリーは『ウェストサイド・ストーリー』の「マリア」を歌ったが、いきなり素晴らしかった。この歌さ、教会の朗誦のような一音で始まり、マリアの名を繰り返して呼ぶ。転調して恋の高揚が語られる。マリアの「まり」はどっちかというと技巧だけど、「あ」音はいつも相手(ここにいないマリア)にかかってる感じがする。風の舟に乗ってマリアに届く音というかさー。それがとてもデリケートで美しい。優しいのだ。ラミンは低音だととても複雑な、でも磨きに磨いた重いガラスのような声で『アナスタシア』のナンバーを歌い、きれいなファルセットで「Bring him home」(『レ・ミゼラブル』で闘うマリウスの身を思って歌われる歌)を三浦春馬に捧げていた。このかなしみと願いの透明さ。でもラミンは『エーデルワイス』の「スモール」の「ル」が、ちょっと失敗してた。惜しすぎる。

よみうり大手町ホール 『ダブル・トラブル』ハリウッドチーム

あれっ。そりゃあコロナかもしれないが、客席の真ん中から後ろを見て、3分の2くらいしか入ってないの、おかしいと思う。それくらい面白かった。

 ブロードウェイチームと違うのは、やっぱ勢いだね。お祭りで売ってる四方八方へぴろぴろって舌が飛び出す紙の笛、いわゆる「吹き戻し」っていうんですか、あのすみずみまでぴっと空気が入ってる感じ。踊る手足は長く、主演の二人はアイドルで、素の見せ方に長じており、スマップ以降のジャニーズは、笑いの取り方もきちんと学習している。一日に何回もステージをこなし、体力だって十分だ。兄弟っぽさ、恋人っぽさは出ないけど、なにしろ「見せる」。兄弟それぞれ(兄ジミー・マーティン=福田悠太、弟ボビー・マーティン辰巳雄大)とレベッカ辰巳雄大、福田悠太)のシーンでは、あー籠絡されてる(セックス込みで)と思わされるし、いちいち芝居が大胆である。

 ところが、この芝居のミュージカルナンバーを聴くと、少し怖くなる。声がフラットで、表情がない。全くない。ここ、重要なとこだ。アイドルと俳優の分岐点はここだ。アイドルは表情豊かでなくていい。それはファンがそこに感情を乗せるためだ。一方俳優はいつも自分の声を探している。どうするジャニーズ。岡本健一が女の人の感情移入(いわゆる萌え)をとても避けるのは、「自分はアイドルではない」と今もまだ言わなくてはならないからだろう。辰巳雄大も福田悠太も、この歌唱のフラットさを、どうするつもりかなー。俳優になる?アイドルを続ける?とにかく、他のとこは優れてるのに、歌の単調さには辟易した。っていうかこわいから何とかして。辰巳雄大、落ちてくる写真額を最後は蹴って押しやっていた。正解。でもスカートの扱いもっと品が大切。