Bunkamuraシアターコクーン COCOON PRODUCTION 2021『泥人魚』

 ビゼー『真珠とり』の「耳に残るは君の歌声」がゆるやかに流れ、滑り板に腹ばいになった麦わら帽子の少女(やすみ=宮沢りえ)と少年(浦上螢一=磯村勇斗)が笑いながら干潟を行く冒頭から、頭上にブリキ板を担ぎ上げた、まだらボケの老詩人(風間杜夫)が夜にはすっかり変わるシーンから、目の覚めるような鮮やかな場面は枚挙に遑がなく、音楽はアングラらしく大きく(セリフの時には小さく)鳴り、役者の出来には凸凹がない。誰もがチームプレーで誠実にやっている。いいじゃん。

 けどさぁ。「みんな主役なのになあ」と、ちょっと不満に思うのである。長崎―ギロチン堤防―浦上天主堂(原爆)―切支丹―天草四郎―人間魚雷―島尾敏雄と、中身が噴き上がってくる魔法の薬缶に、幾層もの関係が重ねられていて、うどんの絆で結ばれた詩人伊藤静雄風間杜夫)とそば屋の女店員待子(渡会久美子)、長崎を逃げ、都会でブリキ加工をしている浦上螢一と裏事情を知る女、月影小夜子(愛希れいか)の片恋、元同僚のしらない二郎(岡田義徳)と螢一など、陰翳薄いよ。切なさがない。螢一、もっとやすみを想え。最初のシーン楽しく。岡田義徳は声がよく、私の考えでは「脇役ではない」。あの衣裳、「脇」のもので、似合ってないよ。宮沢りえ磯村勇斗、頑張っているが、声が小さい。風間杜夫も最初声がいまいちだった、金守珍が一番声が大きく、梁山泊のメンバーもびしっと声が出ている。あっついお湯を入れられた湯たんぽは、幾重にも包まれて適温になっているけど、ウロコの桜貝を透かして見た景色が弱い。舞台の床がぬかるんでない。最後、(あ…そうなの…。)ってなる。

 ベテランが水に浸かり、すごく心配してしまう。余計な心の働きだよね。石井愃一なんか、カーテンコールの方が生き生きしている。カーテンコールの感じでお願いします。

三鷹市芸術文化センター 星のホール『星の王子さまとの出逢い ~音楽と絵と言葉のコンサート~』

 「ごうかーく!」ステージを見るなり胸の中でにっこりする。紗幕にさらりといい感じのペン描きで、いびつな星たち、輪っかのついた星ひとつ、地球っぽい大きめの星などがシンプルに現れ、ピアノの高い音がきらんひかひかと小さく鳴る。紗幕の向こうに布で作って吊り下げた山脈が見え、下手(しもて)にグランドピアノ、その前に一輪の赤い花が花瓶に入れられ、暗幕のかかった台座にある。橙色の天の川も見える。どれもが(たぶん限りあるバジェットの中で)最大に考えつめられ、最高級にシックだ。

 「星の音」がはっきりしてきて、近づいてくる星が心に浮かぶ。立ちのぼるサックス。誰かの声のよう、サックスの中に『星の王子さま』がある。今日の演奏家(サックス、メタルクラリネット、ピアノ)は仲野麻紀で、朗読は本来は銅版画家の中井絵津子だ。仲野の演奏は繊細で、何ていうか、「自分」と「世界」の間の膜が柔らかく、薄い。例えば「星」、例えば「宇宙」、例えば「砂漠」を表現しようとするとき、「これは星ですよ」という目配せ、ワンクッションがない。つねに「星」と「私」であり、対象に迫り、ダイレクトに捉える。今日ほど『星の王子さま』の宇宙が広く(サックスに交じる息遣い)、砂漠が静かに感じられたことはない。「星の王子さまは、ほんとは、飛行士の胸の中にだけ居るんだ」と思った。王子さまの不在。それをつなぎとめるのは中井の朗読であり、いまどきこんな清潔な声の人どこで探してきたんだろうか。舞台に敷き詰められた紙だけど、カサカサいう音がまだ表現に昇華されてないね。楽器を吹きながら上手(かみて)に後ろ向きで歩くとき、仲野は不安そうだった。音が途切れたよね。だめじゃん。

 宇宙の虚無を埋める星の笑い声、サン=テグジュペリ(飛行士―王子―花)がどんだけさびしかったかと考えたりした。

シアタークリエ 『ガラスの動物園』

 「映画にいく」。トム(岡田将生)は、母アマンダ(麻実れい)と姉ローラ(倉科カナ)に何度もそう告げて、牢獄のようなアパートを脱け出す。だが、(おや?)と思うのは、「映画」にそれほど重みがつけられていないからだ。或る時は軽く、ある時は吐き捨てるように、またあるときは顔を背けて逃げるように言及される「映画」、連続性がないよ、いいの?最後にアマンダが真正面から言う「月にでも行け」っていうの、効かないけど?(そこじゃない)って意味?彼らが囚われの人々であることが大事なのかな。どっちにしろ、岡田深みが足りない。自分の役の全体の設計図ちゃんと描く。

 ここに登場する4人の人物は、いつも「映画」を観ている。トムは母と姉と暮らしたアパートの「映画」、アマンダは求婚者が山ほどいた娘時代の「映画」、ジム(竪山隼太)は花形だった高校時代の「映画」、ローラはジムの、まさに今撮られつつある「映画」。映画は何度でも観ることができる。彼らは苦しくなったら「映画にいく」のだ。アパートの非常階段が部屋の上に設定され、くの字型のそれが「逃げ出したい」という祈りの手のように見える。食堂にも居間にも格子状に分断された光が当たり、ここが誰にとっても地獄みたいな場所であることは明らかだ。しかし出てゆくことは容易ではない。だから皆、映画を観る。出て行ったものも、繰り返し上映される自分の「映画」から逃れるすべはない。映画はローラのガラス細工である。繊細で失われやすい、「思い出」のことだ。

 倉科カナ、「不器用」で「引っ込み思案」の『身体』について、もっと深く思いを凝らす。あなたのローラ、積極的だし身体きれそうだよ。アマンダ、フライパンの上で炒られるような、「苦しい生活」と「結婚しかない娘」への烈しい焦燥がもっと必要。ジム、我に返るところがとてもいい、しかし登場が少しぼんやりだ。

紀伊國屋ホール 扉座創立40周年記念公演『ホテルカリフォルニア ―私戯曲 県立厚木高校物語―』

 犬飼淳治、儲かっている!儲けている!中学までは「勉強ができる」ことが自分のキャラで、進学校に進んだ途端、「特徴のないふつうの高校生」になってしまった子の、無口でぎこちない苦痛の表現、佇まいが素晴らしい。すこし周りの空気が蒼ざめて温度が低いみたいなのだ。それは彼が「居ない」からかもしれないし、「薄い」からかもしれない。しかし、あの頃流行った「ジンギスカン」を不器用に――周囲の人を視野に入れず――誠実に踊ろうとする姿が、湧水みたいに澄んでいる。

 作者横内謙介の高校時代の思い出を、独りよがりにならぬよう、登場人物たちの持ち寄った記憶の絵を重ねることで成立させている作品である。受験がどれほどつらいかすぐさま思い出せる。締め木にかけて油を搾り取るように身を責められながら、東大、京大、東京医科歯科大、と、全てがすっぱり切り分けたヨーカンのように分別され、整理される。皆振り落されないために必死な中で、文化祭を成功させようとする懐かしくて苦しくて楽しい話だ。

 主人公の横山君の有馬自由、きちっとやっているが、「声が足りない」。それは岡森諦も同じで、今後十年を見据えるならば、ケアが必要。岡森、正直すぎて鼻血出る十秒前にわかっちゃうよ。張ヶ谷君(高木トモユキ)秀才に見えた。木村部長刑事(新原武)、もっと場を呑んでかかれ。山中崇史と役柄のテイストかぶっているけど、二人で競り合った方がいい。鈴木利典好演、どんどんかつらを利用して役柄を広げてほしい。『山椒魚だぞ!』は初演(1979、大分)の方がずっと上。横山は終わりに「歌ってくれよ」と頼む。このあとここが、繊細で素敵なぼんやりした幕切れである。

 40周年で「序列順に」劇団員がカーテンコールに出る。ちょっと、ヨーカンみたいじゃないか。

吉祥寺アップリンク 『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

 ワン・トゥ・スリー、暗闇・うすくらがり・ひかり、暗闇・うすくらがり・ひかりと、登場人物が現実には見えないもの、自分の影とダンスを踊る。

 ローズ(キルスティン・ダンスト)は元夫と、フィル(ベネディクト・カンバーバッチ)は伝説的カウボーイブロンコ・ヘンリーと、ピーター(コディ・スミット=マクフィー)はフィルを通してみる「自分」と、ジョージ(ジェシー・プレモンス)は「兄というもの」と対になって踊り、ターンする度、影はちらっちらっと姿を見せる。

 未亡人のローズは牧場主のジョージにプロポーズされ、結婚した。ジョージの共同経営者の兄フィルはそれが気に入らず、ローズを圧迫し、追い出そうとする。ところが、ローズの息子ピーターはフィルと次第に親しく近づいてゆく。

 て感じの話なんだけど、映画が終わった後観客のおじさんが思いっきりじゃぶじゃぶアルコールで手を洗っていたのが印象深い。病気が心配になるのだ。私も少し、そういう気持ちになったね。

 この映画で一番「しどころ」のある役は、若い息子のピーターで、他の大人の三人の役者はしっかり演じるが、設定された造型は案外浅い。キャメラがモノを言うシーンが多いのだ。紙の花をぎゅうっと指で押すところとか、「えっ誰と誰」という気持ちにすぐなってしまう。はやっ。ジョージと、兄の関係が、演技や台詞からつかめない。あとさ、「ぞっとする音」を訊かれて涙ぐむピーターの心事がわからん。ピーターとジョージが壁に投影した少しずつ大きくなる同じ影のように思えるとこがいい。山をうっすらと雲の影が通り過ぎる、そこで繰り広げられる一瞬のダンス、それは小さな点のようにかすかに遠く見え、のしかかる悪夢のように逃れがたかった。

下北沢 小劇場B1 good morning N°5 『異常以上ゴミ未満、又は名もなき君へ』

 「舞台」と「客席」のあいだに、ぴんと張られたビニールの幕がある。うつくしい水槽。黒いTシャツの下のスカートが、色とりどりにきれいで、熱帯魚みたいで、もっと見たいけど、役者とすぐ目が合っちゃうので、非常に見づらい。しかし、この芝居の始まる前が、めっちゃ楽しいのだ。上演開始10分前まで、昼ご飯を食べそこなった観客の心配をしているし(「いいんですか?まだ食べてこれますよ?」)、配られた3本のクラッカーはいつどんなタイミングで鳴らしてもいい。客席はほとんどが所謂「女子」で、好きにクラッカーを鳴らし、「緊張」が少ない。「女子」の「解放区」だ。こんな場所、なくなってほしくない。それには中身が大切。なのにもう、いっちょん(全然、という濃い方言)わからん。大体、わかってほしいという気持ちがあるのかすらわからん。言い方を変えると、本編が弱い。小説を書く居候の三郎(野口かおる)と男(市川しんぺー)が対で、むかしの状況劇場のような、いやそれ以上、いつもレンジが振り切れているハイテンションだ。そして吃驚するような登場をする。ある意味、登場が一番常識外れだ。(まじで気をつけなよ!)「時間」が「命」であるならば、舞台の人物たちは、命を削りながらポップなやり取りを続ける。「序盤」のない「結末」、「結末」のない海に流された「序盤」、瞬間瞬間、沸騰爆発し、芝居は爆発をつないで線を描いて途切れ目を見せず続く。けど、テンションが高すぎてきつい。こういうのが「ナンセンス」なんだと思う。でも置いて行かれちゃう。頭脳で描いた線だから。ブランウェル(ダメな男兄弟)の序盤にエミリー(ブロンテね)がすごい続きを書いたように、ブランウェルのアウトラインじゃなくてエミリーの中身、「3D」「空気」が要る。90分の芝居に拘るのならば、人物はもっと整理する。単純化が必要。声を嗄らす人は駄目。市川しんぺー、気を付ける。

映画 『リスペクト』

 ジェニファー・ハドソンといえば、『ドリームガールズ』(2006)の、不満が多くてわがままな、ドリームズ(シュープリームスをモデルにしたと考えられる三人組の歌手)の一員だ。「わがまま」で「総すかん」の目に遭うにもかかわらず、公開後十数年たってぼんやり思い出す『ドリームガールズ』のハドソンは、(あー、あの人、誰よりも「いい者」だったなあ)って感じなのである。「歌上手い」は正義になっちゃうのだ、説得力で。アレサ(アリーサ)・フランクリンがJ・ハドソンに自分の役を演じてほしいと指名したことや、アレサの葬式で、あの「アメイジング・グレイス」を歌っていることからも、ハドソンの実力と彼女への期待が読み取れる。

 この映画が優れているのは、評伝に出てくるアレサが、子どもの頃のトラウマを絶対に認めなかったという伝記作家にとってはがっかりな事実の周りをそっと埋めており、その埋め方にたいへんリスペクトがあるという点だ。ベッドにいるアレサ(ジェニファー・ハドソン)に献身的な二番目の夫(アルバート・ジョーンズ)が、足のマッサージをしようとし、両足を微かに持ち上げると、アレサはやめてと小さく鋭くいう。ここで何もかもがはっきりする。薄紙に開けた針の孔のようにこまかい、見えないほどのキズ、しかし針に糸を通すように記憶を通す場所が彼女にはあって、それが彼女を一種の離人症、健忘症に追い込み、つらい目に遭わせている。アルコール中毒がアレサを襲っても、理由は明示されない。ここは、もっと言ってくれないとわからないよ。でもきっと、あの場所が彼女を苦しめてもいるのだろう。あと、あの最初の夫テッド(マーロン・ウェイアンズ)みたいな評判悪い男と結婚しちゃう人にも必然性(父の重圧とか)があり、最後に涙を浮かべているテッドを見て、彼にも何かしら苦しい理由があるんだなと思っちゃいました。