紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 劇団民藝+てがみ座公演『レストラン「ドイツ亭」』

「真面目なお嬢さん、」とヒロインのエーファ(賀来梨夏子)は呼ばれていた。いつもはちょっと残念な長田育恵の真面目さが、この芝居を光らせている。絶滅収容所、選別、ガス室アウシュヴィッツ裁判という暗い題材が、あまりにも重い虚無の額縁のように人類の上にのしかかっているせいか、原作の筋運びはやや軽く感じられ、「ドラマのためのドラマ」にも見える。しかし長田が一つ一つを引き寄せ、じっくり検討したおかげで、この作品は錨をしっかり下ろした船みたく、内側からドイツの激流を眺めることができる。でもほんとは、「やばい激流」だよね。善悪共に濁流に呑みこまれる感じの。やばさが足らない。「真面目」の両面だけどさ。

 賀来梨夏子、がんばった。台詞が言え、聴けている。一幕の最後の「私は真実が知りたい」ってとこ、大事だけど、見得切らないで。それよりも、最初の誤訳するところをよく注意して繊細にやってほしい。最初エーファは知らないけれど、ここ、観客全員が戦慄するシーンだ。

 床屋のジャスキンスキー(杉本孝次)、重要な役で好演している。私はあなたの慰めのために生きてきたわけではない、とエーファを突き放す。生きることの孤独と一人一人が背負う重荷をエーファに投げ返すのだ。優しく、他人行儀で、親しげでも冷たくもあるという、複雑なトーンだ。てがみ座の人々、民藝と違和感なくきりっとしてる。ユルゲン(岸野健太)もっと怖い感じじゃないの?

 「雷おやじ」が実は戦場でのPTSDであったといわれるように、民藝でいえば先年の『どん底』(2021)における民衆の戦争の傷が、世代を経て複雑化し、直接の被害ではないトラウマと化して腫瘍をつくり、免疫不全を引き起こしている様子を俯瞰するドラマ希望。受験でナイフを振りまわす子は、突然現れてくるわけではないよね。

本多劇場 第32回下北沢演劇祭参加作品 劇団 東京夜光 『悪魔と永遠』

 4年前、下北沢のキャパ100人ほどの劇場で公演を打っていた劇団が、本多劇場(386席)で『悪魔と永遠』の幕を開ける。うーん。すごいね、三段跳びのようだ、しかもスズナリ飛ばしてる、というわけで、リリースする側は自信を持っており、受け取る側は居ずまいをただして受け取る、気合の入った立派な作品であった。

 経理で働いていた鞍馬正義(東出昌大)は、羽目を外したある夜、クラブで知り合ったマリア(前田悠雅)と雑居ビルの屋上でクスリをやり、自殺願望のあるマリアもろとも地上へ飛び降りてしまう。女は死に、正義は刑務所でその償いの刑期をつとめ、建設会社の足場鳶として再出発する。再出発って、あり得るのか、「再」「再」「再」と罪は巡り、償いは終わらない。絶対的光明としての神(私は許さなくても神は許して下さる)はいない。正義の生きる人生はまるで、無間地獄に落ちたようである。出てくる人も、苦しい事情を抱え、業の上に業が積み重なってゆく。鐘の音は鉦の音にも聴こえる、そしてエレキギターシンセサイザーの、濁った世俗の音にまぎれる。

 東出昌大、以前キズに思ったとこは、すべて修正されてる。母音の「あ」音が割れることが多く、ものすっごい損。身体の隅々までコントロールできていない、腕組みの「かたち」、変だよ。殺人を犯し、正義を脅す我聞(尾上寛之)好演、最後の姿まで不自然でなくつながる。

 「いきなり本多」の劇団らしく、芝居がいまいち。サイズがねー。草野峻平大振りしない。コンパクトに。村上航、とりあえずここでは前時代の演劇の事は忘れて(特に前半のコミック)。音響が大袈裟。

 「他者」と「自分」、その業の中にしか自分はいないという終わりなの?物足りないよね。正義、「信用ならない語り手」のように見えるけどさー。

Bunkamuraシアターコクーン 渋谷・コクーン歌舞伎第十八弾『天日坊』

 「振り出し」は、端っこから。細かく割られたコマに土地の絵が入る道中双六が、さっと始まる。「祝」と書かれた小さな舞台と、「まねき」の上がったやや大きめの舞台がまず並ぶのは、「双六ですよ」と教えてくれてるのかも。コクーンの舞台の中に舞台がある。そしてこの、観客から見る二重の舞台は、「俺はだれか」と模索する、一人の男の見る夢なのだ。みなしごの若者法策(中村勘九郎)は、ある時は源頼朝のおとし胤であり、また腕に「天」の字の痣を持つ木曽義仲の嫡子だ。「最大」では六十四州の覇者であり、「最小」ではどこの誰とも知れない。「何者でもない」は「何者でもあり得る」。若い者につきものの、悩みと自負が透ける。法策を扶ける盗賊の人丸のお六(中村七之助)と地雷太郎(中村獅童)も、最初はよく出る歌舞伎の悪くてかっこいい人かと思うけど、高窓太夫中村鶴松、好演)を手に掛けようとするあたりから、様子が変わる。なぜおれたちこんなことしてんだろという挫折が、ありありと覗くのだ。手足が重く、暗くなる。ここ、すごくよかった。最後は素舞台だ。ふと振り向くみなしごの男は、夢から覚めたのか、それとも振り出しに戻ったのか。

 最初の発端、大事なシーンだけど、いきなり置いて行かれちゃったよ。現代語操るのがむずかしそう。このシーン頑張ってほしい。

 勘九郎とてもいいけれど、どこが自分の芝居の一番のヤマ?「なんだてめえは?」大事じゃない?お六あそこで泣いちゃってるけど、泣かないで。勘九郎にかずけて。張りつめた風船が、二か所で破れるみたいに見えるからさー。

 立ち回りが勘九郎七之助獅童と、三人三様で早くて美しく、トランペットがかっこいい。法策の野心が目覚めるところの相互作用が素晴らしかった。身体に棲みつく化け物の咆哮のようでした。

東京芸術劇場シアターウェスト 劇団青年座 第246回公演 『ある王妃の死』

 角が舞台の中央に来る、鳥かごのような華奢な部屋。部屋と外を仕切る建具の模様が、いかにも韓国風で、複雑かつシンプル。きれい。縁が鈍い金色に貼られ、角に向かって、非現実的に下がっており、それがなんだか間仕切りを、部屋の中の「心臓」を守る胸骨のように見せる。この芝居では赤がいろんな意味を持つ。朝鮮のシンボル「心臓」としての赤、王妃(万善香織)の女の心の赤、国家とそれへの忠誠の赤、「心臓」をうかがう暴力「血」の赤、「酔う」赤。

 ソウルの景福宮、「あ、行った行ったー」と気軽に思うけど、「1592年文禄の役で焼失」という用語解説で、うなだれてしまう。知らなかったよ。碌なことしてない、わたしたち。

 内務大臣野村(山野史人)に特命を受けた三浦悟楼(綱島郷太郎)は、朝鮮国特命全権公使として朝鮮へ赴く。任務はロシアに傾いた朝鮮王室を、日本びいきに変えさせることだ。こっからひどい。王妃を押し包んで切り殺す。しかし、日本人たちは「むごい」とも思わない。彼らは国の大義に酔っている。ほんの数十年前の「志士」の記憶が、若い者を過激な行動に駆り立てる。大義名分に祀り上げられる王妃の政敵太政君(津嘉山正種)と、陰謀に奔走する大陸浪人岡本(佐藤祐四)が暗殺の夜に向かい合うシーン、ここすばらしい。太政君は岡本を「好きだった」という。しかし演出は岡本の顔を見せない。いい芝居してるのに。何故ってその見えない顔は、暴力と熱狂の歴史を知るわたしたち(観客)自身の表情であり、各々が自分の顔を探るべきなのだった。

 綱島郷太郎、完ぺきな演技、でもさー、この芝居、「酔う」って大切じゃない?三浦悟楼は酒豪だったのかもしれないけど、酔いが「深くなる」ところが見たいです。須田祐介、声、ぱりっとしてた。「怖いです」って怖そうに言わなくていいの?

吉祥寺シアター 劇壇ガルバ『ザ・プライス』

 警官のビクター(堀文明)が昇り階段の欄干に手をついて妻エスター(高田聖子)を待っているとき、(あれ?)と思うのだ。欄干に掌をぺったりつけて体を支えない。高さの都合でビクターは指先だけを手すりに預ける。なんかちょっと変。ちょっと奇妙。その無理してる手が、なんだか、ビクターとこの芝居の総てを語っているような気がしてくる。

 ビクターと兄のウォルター(大石継太)はかつて上流階級の子弟だった。やがて彼らの父を大恐慌が見舞い、家は零落する。母は死に、ウォルターは一人家を出て医者として成功する。ビクターは父の面倒を見るため、大学をやめて警察官となった。そのせいで兄弟の間には深いわだかまりがある。実家の取り壊しが迫り、ビクターとエスターは鑑定士(道具屋)ソロモン(山崎一)を呼んで家具を一切合財売ってしまおうとする。そこへウォルターが来た。

 セットが凄くいい。透明な幕を使った芝居はいくつも観たが、いちばん深く活用されていた。「家具にかけられた透明の幕」「めくってもめくっても現れる透明な幕」、過去と記憶を見抜くことがどんなに困難で、どんなに「触れがたい」ものであるか。家具を値踏みするソロモンは、金――変わらぬ価値として一家の調度を見る。兄弟はそれを記憶として振り返り、自分たちの愛憎、代価を見定めようとする。

 「気が狂っていくうちで、一つだけいいことがある」っていう台詞変だよ。「うち」でなく「なか」でしょ。あと、感情のコントロールね。ビクター、感情が激しく上下する役だけど、役に振り回されちゃダメ、乗りこなす。ソロモン、楽しそうだけどもう少しストイックに。中盤冗長だよ。エスター、この人アル中じゃないの?ウォルターの大石継太好演。いい人でも悪い人でもない。

東京芸術劇場 プレイハウス 『hana-1970、コザが燃えた日-』

 「勧善懲悪」「正義」の裏には矛盾と混沌が貼りついてる。77年前の戦争を悼んでも、焼夷弾の落ちてこない、機銃掃射されない日常の、日々のゲームの中で敵は死に、孤独な者が他人を刺す。戦争は死なない、息づき、うごめき、いつも「いま」の隣にある。その気配を一番強く受け取る最前列、「日本」から「疎外され」「切り取られた」コザの街での、ある家族の物語である。空に歪んだ月のようにかかるアメリカ国旗の下、1970年12月20日の夜が来た。2年ぶりに実家の敷居をまたいだアシバー(やくざ、遊び人)のハルオ(松山ケンイチ)は、母ユキコ(余貴美子)が米軍の脱走兵(玲央バルトナー)を匿っていることを知る。その弟の教師アキオ(岡山天音)は新たな正義、沖縄返還などの政治にかかわっている。彼らには年の離れた妹ナナコ(上原千果)をめぐり屈託がある。終わらない戦争を生きる母の絶叫は「たっくるせ!」というその夜のコザのアメリカへの怒りの中に溶け、やがて祈りへと変わる。

 えー、この頃すごく面白い芝居を立て続けに観ていて、これもその一つ。けど、モダンスイマーズ(3000円)俳優座(5500円)て考えると、この芝居の前半のゆるさはちょっとどうよ。松山ケンイチが空気を孕んだ素敵な黒のパンツと、投げやりな感じにひらひらする柄のシャツを着て登場すると(おっ)と思うけど、学校の比嘉先生(櫻井章喜)、ルポライター金子岳憲)の古風で型通りの事情のやり取りは、何とかならなかったのか。ルポライターの言葉が軽く浮くならば、コザの人たちの傷は重く痛いはずやん。かっこいいだけじゃダメ、松山ケンイチ岡山天音、傷が浅いよ。なんていうか、身体をひねっただけで溢れ出すような痛みがない。玲央バルトナー自分の身体の「中」に集中、I’m readyという時用意ができてないと。余貴美子、終盤最高、序盤が弱い。

TOHOシネマズ渋谷 『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』

 ふふーん。いまこんななってんのかスパイダーマン。感心しながら目の前のトム・ホランドスパイダーマンが、身元をばらされドローン攻撃したと非難され、MJ(ゼンデイヤ)を抱えて家に帰り着くまで、私も頭の中で忙しく走る。私、最初期の二作しか観てない。でもその後のマーベル映画の躍進ぶりは知っている。スパイダーマン=ピーター・パーカーはこの作品の中で、子供(高校生)であることが露見して、世の中の激しい苛立ちにさらされる。この苛立ちは、映画を作る人のマーベル=勧善懲悪(子供向け)へのフラストレーションのように感じられた。だってお子様映画だもんこれ。お子様映画であるが、勧善懲悪は融解し、疑問を持たれる存在になっている。「懲らす」は「殺す」だもんね。ピーターは多次元宇宙から引き寄せられてきた悪党(ヴィラン)達を殺さない、「治療する」という。傲慢。でも殺すよりましだ。ここが新しいんじゃない?「MITに入りたいから」と宇宙の成り立ちを変えようとするピーター(なぜいうことを聞く、ベネディクト・カンバーバッチ?)が、自己犠牲と別れを経て、「ひとり」、「大人」になる物語である。

 ベネディクト・カンバーバッチが明らかにすごくわかりやすい芝居(子供向け)していてつまらない。トップギヤで来い。トム・ホランドって初めて見たけど、どうやって作ったのか、左眼の充血が「とても芝居している」よね。メイおばさん(マリサ・トメイがおばさんだって!)との別れのシーンはたっぷりやるが、思いっきり海の上で音を立てて息を吸い込んでから潜る人みたいで感動しない。トメイの顔の方が迫力がある。

 先輩二人の「苦痛」と「悲しみ」がいい。この今までなかったことにされてきた「痛み」も新しい。このひとたち、もうちょっとだけ、かっこよく撮ってもよかったんじゃないの?脇だから駄目なの?