角川シネマ有楽町 Peter Barakan's Music Film Festival 2022  『ブリング・ミンヨー・バック!』

 風の盆の一週前の富山駅は、静かに手をかざして踊る八尾の人たちの映像でいっぱいだ。(へえー)お土産買いながら見入った後で、ふと一瞬涙出たりするのであった。なんだろ。あんなに見物人いるのに、見せようと思っている人がおらん。人のために踊ってない。自分のために踊る。自分の浄化のために踊っている。それって、一年間のきついことの総量が、めっちゃ多いってことじゃない?

 今日の映画の中には、民謡って何?っていう問いが入っていた。民謡は、田植えや地引網などの時の労働歌であり、作ったものでなくできたもの、だって。そして「お座敷」を通して洗練されていく。そうだけど、そうかな。きっと、「きつい」と「浄化」の二本立て。田んぼ仕事はきつかった。漁師はきつかった。そのきつかった間じゅう、日本ではあちこちで民謡が歌われていた。苦痛があんまり大きくて、「楽」との差がひどいと歌が生まれる。民謡の本性って、「楽を夢見る『苦』」じゃないの?と、映画見ただけでごめんだけど私は考えた。映画見ただけでごめんの人より考察あっさりしてないか?いろんな人に意見を聞いているけど、監督はどう思っている?そしてあっさり淡々と写されている民謡クルセイダーズから、もっと深いものを汲みだすべきだった。ぜったいもっといろいろ考えてると思うもん。たとえば、「滅びる」ことについて。

 映画に出てくる郡上八幡の「生きている」盆踊りは目を奪う。圧倒された。腕立て伏せをしてからフェスの舞台に出てゆくメンバーはかっこよく、コロンビアでのクンビア・バンド、フレンテ・クンビエロとのコラボは素晴らしい。前向きに伸び伸びと、楽しげに音楽が彫琢されていく。でもさあ、一点「苦」(或いは「陰」)がないと、「陽」が輝かないよ。

俳優座劇場 劇団昴公演 SUBARU No.37 2022 『評決』

 弁護士資格剥奪寸前まで追い詰められ、所長の娘とも離婚したフランク・ギャルビン(宮本充)が、酒浸りの日々を過ごすうらぶれた事務所の光景で、急速に違和感を感じる。

(だ、脱輪してる)

 訴訟の御用聞きのため葬儀場に電話する声は滑舌がきちんとしてるのに、身体が反応してない。仕草に感情の一貫性がなく(浅く)、声と乖離している。足に体重がかかってない。主役だから愛嬌と余裕だしていいよね。いいのさ。全体に、誰もが翻訳調で喋り、翻訳風な(幻想のアメリカ)芝居をする。うーん。「いま、ここ」にいないと駄目やん。

 構成と演出に難があり、フランクとドナ(林佳代子)のゆくたては、なんでそうなるのかの深みがみえず、よくわからない。暴力シーンは、よくある映画の女の人のバストトップを見せたヌードシーンくらい要らない。そして電話やスタンドのコードが、医療事故でチューブに「つながれたデボラ」「つながれている現代人」を表わしているのなら、もすこしシャープに見せてほしい。あと、法廷で激高する関係者の声が重なる所の処理が、音楽的でないよ。

側溝に落ち込んでいたタイヤは、後半に向かうにつれ地面に近く、平衡を取り戻す。証人としてナタリー・ストンバナット(市川奈央子)が登場すると、芝居は加速し、ぶれは消え、全てが鮮明に像を結ぶ。

 皆巧いのに、前半脱輪して車がたがたなのがほんと謎。惜しい。肉体性をとりもどしてほしい。声で表現しすぎなんだと思う。ミセス・マクデッド(石井ゆき)、腰の角度が少し不自然。お医者さんたち(タウラー=永井誠、クラウリー=宮島岳史)蒼ざめるとこ、びしっとやって。

世田谷パブリックシアター シアタートラム 『毛皮のヴィーナス』

 支配したい(サディズム)、支配されたい(マゾヒズム)、ふーん、どっちもね、とすっかり冷静なんだけど、すっかり冷静じゃあ、この芝居全然わからないのだった。なんか、芝居の裏打ちに、「ディオニュソス的赤」が縫い付けてある。黒いキャンバスをナイフでシュッと切りつけたら、中から真紅の絵の具がごぼごぼ湧いてくる。筈。

 演出家トーマス(溝端淳平)は、『毛皮のヴィーナス』を舞台用に書き直した。イメージに合う女優は見つからず、オーディションを終えようとした時、ヴァンダ(高岡早紀)が突然現れる。ヴァンダは謎だ。マゾッホのヒロイン、ヴァンダと同じ名を名乗り、安っぽくも、高貴にも見える。ヴァンダとトーマスが脚本を読み合ううち、世界は裏返り、狂熱的な赤、原初の演劇的衝動が、姿を見せるのだ。ってことになると、この芝居、ちっちゃい。なんていうか、梅干しおにぎり的に、ちっちゃいの。赤が見えないし、「赤い」熱狂までたどり着けん。

 高岡、(こんなこともできるんだ)と思ったけども、蓮っ葉な女をやり通してもつまらない。もっと蠱惑的なところや、本の裏を読み切る「怖さ」が声音に出ないとね。自分の心の留め金を開けないとだめ。大胆さが足らん、溝端も同じだけどさ。このトーマスって男、UCLAの怜悧な金持ち美人をガールフレンドにする、今時の男だよ。今は、たぶん溝端の地、「いいひと」になってるね。あと、決定的にエロスがない。エロスってやっぱり、心の留め金をいくつもいくつも外さないと出てこないよね。きょう、その大事なシーンで噛んじゃったね。いろいろ芝居観るけど、こんなに噛む人そういない。高岡は身ごなしが内向きに、おにぎりみたいにぎゅっと閉じてる。溝端は心がおにぎりです。結果、最後の赤い紐が不可解。しかし、高岡が現実に一歩近寄るところが秀逸。

Bunkamuraシアターコクーン COCOON PRODUCTION 2022 +CUBE 25th PRESENTS,2022『世界は笑う』

 舞台端にどーんと掛けられた大きな時計の時間が、観客の時間と同期する。KERA、時間を融かしたのであった。

 昭和三十年代、笑いの劇団三角座の、台本を配って徹夜で稽古を始めるまでの、3、40分がぴったりこちらに貼りついてくる。そして、地方公演の長野の旅館では、もう時計すらもなく、「今、ここ」で起きるあれこれの劇的な成り行きを、「混ざった時間」の中で目撃することになる。飽きないねー。次から次に現れる人物は、たまたまそこを通りかかった風に見え、台詞は自然で、わざとらしさはないのだ。だーけーどー。やっぱさー、「今偶然通った人」は、緊密な台詞は喋らないよね、そこがいくらか、間が抜けて見え、キャストの技倆にずぅんと重くのしかかってくる。冒頭の撫子(伊藤沙莉)が誰かを探すように登場し、それを兄の大和錦(勝地涼)が追いかけてくるシーンは、今日は明らかに勝地が上ずっていた。あのね、田舎から弟助造(千葉雄大)を頼って上京してきた彦造(瀬戸康史)が、『世界は笑う』の若いキャストの中で一歩先んじているのは、瀬戸の踵から、繊(ほそ)い繊い根が生えて、舞台面で身体が安定しているからだ。(ほんのちょっとのリードだよ、まだ根がほそいもん)千葉、勝地、伊藤、踵つるっとしてるよ。伊藤の「わたしもうわかりません」は、撫子でなく、伊藤がよくわからないのが感じられる。この人、最後くらっと転身するよね、その前段だって考えてもらいたい。ネジ子の犬山イヌコ、いつもより前に出る役作りですごくいい、トーキー(ラサール石井)とのやりとりすばらしかった、けど、二人ともあんまりたっぷりやらないで。山内圭哉の芝居の下支えが光っていて、対話する相手がよく見える。初子(松雪泰子)、重大な役なのに、すらっと去るね、さいごの大倉孝二との対話もっと深く。

新宿シアタートップス TAAC 『人生が、はじまらない』

 作者が、井戸の中のひどい話に近寄らぬよう、井戸屋形をかけて遠巻きにしてるのに、その遠巻きにする残酷さが、さらに芝居を地獄の様に残酷にしている、ってかんじかな。作者は登場人物に決して近寄らない。ネグレクトした母親にも置き去りだった長男にも次男にも触らない。不得要領な台詞をたくさん与え、暗い顔をさせ、事の次第が自分に解るよう、「願っている」のだ。何のためにさ?「おもしろい」「おもしろくない」私は芝居をジャッジする、その俎上に、この芝居、のせちゃっていいの?例えば日航機墜落事件を扱った野田秀樹の『フェイクスピア』では、作家は全力で機長の手に「触れに行く」のであり、絶望を共にし、操縦桿を上げる。そこんとこがあるから、こちらの心の中に多少感じる(えー?)という気持ちが乗り越えられ、鎮魂を祈れるんじゃん。他方、この芝居はもともとの事件を掘り起こしたに過ぎないよ、ものすごく失礼だし、出てくる誰の心もわからない、作家がまだ作家じゃないから。悪いことは言わん、登場人物の手を握れ、そして離すな。

 長男(清水優)、一生懸命やっており、芝居に好感を持った。少年時代、「妹(難波なう)を打たない」設定になっているところが、この芝居全体のウソになっているが、それを勘案しても、ちゃんとした芝居だ。次男(安西慎太郎)も精いっぱいやるが、告白後の雷がダサい、ダサすぎる。芝居の邪魔だ。七味まゆ味もせっかく二役なのに、二役が無駄だ。長男の妻として言うことが、よく理解できない。ジャーナリスト(猪俣三四郎)に一番心中を語るセリフが割り振られていて、そこがまたわからない。

 ほんとにこの作劇がなかなか理解できない、これが「与党的な態度なんです」と言われたらそれきりだけどさ。

東京芸術劇場プレイハウス NODA・MAP第25回公演 『Q:A Night At The Kabuki』

 『Q』はずいぶん変わったねー。「クイーン」、そして『オペラ座の一夜』がバンドの四人を一つの脳髄に納めているように、『Q』で繰り広げられる極彩色の源平合戦は、「それからの愁里愛」(松たか子)という女の頭の中から吹きこぼれてゆく物語だ。それは寝台で始まり、寝台で終わる。おんなはどこへも行かない。ただそこに居る。消えた恋人が戻ってくるよう、何度も過去を辿りなおすのだ。男は戻ってこない。戦争へ行った。戦争で疲弊しきっている。戦争ヨオワレという声が高く聴こえ、それから、戦争とはオワラナイのだという正反対の低い声が聴こえる。それは女の純粋な思いのたけが小さい一機の紙ヒコーキの形を取り、また別のシーンでは紙ヒコーキの群れが暗鬱な爆撃機の編隊となって舞台上を掠めるように、矛盾している。巴御前(伊勢佳世)、瑯壬生の母(羽野晶紀)の造型がびしっとなったなあ。何より、『逆鱗』と双子のように似ていた後半の演出が、変わったところがいい。平水銀、白銀(小松和重二役)、そしてその裏切りが、もっと明確になってほしい。野田秀樹が歌舞伎っぽく喋るところが付け焼刃。もっと芯からKABUKIに取り組んだ方がよかった。広瀬すずシェークスピアよくなった。しかし言葉(呼び名)に気持ちを込めるとこ、志尊淳ともどももう一歩深くいけそう。名前を捨てることが平時と戦時で意味を違えてしまう、というコントラストがちょっと迷子だなー。平清盛竹中直人)のメイク、ジョーカーには見えん。今日は初日かぁー。まず、皆声が剰(あま)ってる。上川隆也含めベテランの身ごなしが、めっちゃ軽い。あとアンサンブルのマスの動きがまだ硬い。

 この舞台そのものが、思いのたけを籠めた小さな紙ヒコーキだ、女の部屋――病室――を折りたたんで、そっと飛び立ってゆく。

ヒューマントラストシネマ渋谷 『エルヴィス』

 時間軸をいくつも並行させたり、きゅっと束ねたり、画面を割ったり、バズ・ラーマンはいくつもの書体で小説を書く「実験の人」みたいだ。畳み掛けて強調するのがとても上手。エルヴィス・プレスリー(オースティン・バトラー)を世界的なスターに押し上げたマネージャー、トム・パーカー大佐(トム・ハンクス)が、まず瀕死の状態で登場し、エルヴィスとじぶんとの係わりを説明し始める。エルヴィス・プレスリーの出現から落日まで、映画は花火のように派手に、そのあとの暗闇のように寂しく、彼の足跡を追う。トム・パーカー大佐がどんな風にエルヴィスを操り、エルヴィスがどれほど搾取されていたか、ホテルとの契約の件はほんとに非道く、圧巻である。悪魔的、メフィストみたいさ。だーけーどー。この映画の中で一番素晴らしく、冴えているのは、「そこじゃなかった」。そして、それはバズ・ラーマンがイタリックもゴチックも使わない、企みのないシーンなのである。じゃあ普通に撮ればって感じです。ちいさな会場なのに、緊張の余り震えるエルヴィスが、歌い始めた途端、観に来た娘たちが急に電気を吸ったみたいに変わってゆくところ、ここが凄いの。自分の中に眠っている欲望に気づき、その欲望(それはエルヴィス・プレスリーという形をしている)を肯定し、肯定している事を声に出してしまう。そのことにためらいがあるから、みんな、なんていうか、一言で言えない顔をしている。「嬉しい顔」「哀しい顔」「戸惑う顔」等々、カメラの前で要求される表情を越えてるのだ。説明も越える。このシーンのおかげで、エルヴィスがなぜ大スターなのか、一目瞭然だ。オースティン・バトラーは敬意をもってエルヴィスを演じているのだろう、とっても品がいい。トム・ハンクス、「嫌いになれない悪い人」だったが、最初に上半身が映るとこ、着肉がうまく着こなせてないよ。