紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA 劇団民藝公演 『モデレート・ソプラノ』

 目隠し鬼みたいに、芝居が観客の私たちを、どこに連れて行くのか、分からない作り。何をしているのかわからないけど、とりあえず踏み出す人々の群像劇だ、と途中までは思うのだが、目隠しを取ると、意外な場所に立っている。大体人間は、目が見えないみたいに、今自分のいる場所について考えない。電車の老人シートにさっさと座れるようになったころ、病院にやたらと用事のできるころ、みな、「あのとき」いた場所、景色のことを思い返すようになる。愛について。仕事について。芸術について。出てくるのは実在の人物で、出来事も事実だが、作家によって作り上げられたものでもある。くるくると鉛筆でつづけて描く円が、遠目に見ると一本の線になっているような感じだねえ。前世紀前半、第一次大戦にも従軍経験のあるジョン・クリスティ大尉(西川明)は、その圧倒的な財力で、自邸のあるサセックス州のグラインドボーンに、オペラハウスを建てようと図る。妻オードリー(樫山文枝)は歌手であり、ジョンは彼女をそこに立たせたい。ナチドイツから逃れてきた芸術家たちとやり合いながら、オペラの演目は決まってゆき、オードリーはオーディションを受け、時は進み続ける。んんー。これじゃいかん。ぜったいいかん。樫山文枝西川明、滑舌ちゃんとやって。樫山は「ん」の発音に難があり、西川は同じ母音が連続すると途端に聞き取りにくくなる。愛の話(いい話なのだ!)だから年配の人がいいと思ったのだろうが、観に来ている年配の人は、けっこう「ききとれない」のにきびしいよ。指揮者フリッツ・ブッシュ(小杉勇二)、台詞をとちった落胆が芝居に出て、こちらの胸も暗くなるのでそこはこらえて。忘れよう。小間使いジェイン・スミス(日髙里美)、主人の前でもすこし(せいぜいって意味)遠慮する。その塩梅が役者のセンスだ。

本多劇場 KERA・MAP #010 『しびれ雲』

 KERAの頭の中から生まれた架空の島「梟島」に、一人の怪我をした男が現れる。記憶を失い、フジオ(井上芳雄)と名付けられた男と、彼の周りの20人に満たない人間関係の、戦ぐ波乱と頭上に浮かぶ「しびれ雲」。島の住人の潮目になるという「しびれ雲」を見上げながら、皆、泣いたり笑ったりして生きる。「しくさる」という言葉が、丁寧語として島の方言では使われている。はい、ちゅうもーく、ここ試験に出ます。この言葉は「軽蔑」で使われる架空でない日本の通常のカタチと、「尊敬」語(梟島では)をつないでいる。東京と梟島、架空と現実、フジオの過去と現在がつながり、縁談が結ばれ、いろいろの事が、つながることで、雲のようにゆっくり動き、おさまっていく。

 これ、KERAの言うとおり、役者の味で観るタイプの芝居だなあと思う。例えば佐野周二の演じる原節子の上司(『麦秋』)は、原にちょっと気持ちのある芝居が全然嵌らず、「不味い」のだが、『風の中の牝鶏』の、身を売る娘に職を世話してやり、妻と生き直す復員兵は、どこかあっさりしていて、全人的に信じられる明るさが体にあり、「旨い」。俳優は、恐れず全身を見せないと、『麦秋』の佐野周二のように「不味く」なる。不味い人はいません。けど、萩原聖人、クロールの腕が縮んでる。自分らしくのんびりやっていいよ。大きく手をかき、水をしっかり押さないと、遠くまで行けません。富田望生、あごを引く。後ろの首筋を伸ばすのだ。首が前に出ていると、「旨く」ても「不味く」なる。ともさかりえ、手足がちょっと漫画になりそう、気をつけて。KERAが「小津」で表わすものの本体が、正確にはよく掴めず、時代の「夜風の中に泣き声を聴く」小津に対して、「戦ぐ(風)波(海)」、「年末(冬)に鳴くヒグラシ(夏)」を一つにして、世界を一巡りにつなげるのかなと思う。小津みたいに。

世田谷パブリックシアター シス・カンパニー公演『ショウ・マスト・ゴー・オン』

 再演の映像を、深夜のテレビで観たのかなあ。「松」、「トランプ」くらいの、断片的な記憶しか残ってない。楽しく観て、すっかり忘れてる。今回この28年後の再々演を観て、「ふーん」と感心するのは、ところどころに、ひんやりした匕首のような怖さが潜んでいるとこだ。楽しそうな素人に、三谷幸喜扮するあずさが、「あそびじゃない」というシーン、舞台監督の進藤(鈴木京香)が、作者の栗林(今井朋彦)の脚本をくさすところ、等々、笑いに紛らかして提出されてるけど、どれもほんとは重い。東京サンシャインボーイズの決定的な弱点は「リアリティがない」こと、それは「リアリティより笑いを取る」三谷幸喜の気質からきていたんだなと思った。そしてこの芝居には、28年前にあった「弾み」がない。舞台が広く感じられ、間髪を入れない、打てば響くようなテンポが欠けてる。もう一つはさっき言った「リアリティ」、ショックを受けた登場人物が立ち直るまでの深い芝居(細かい芝居かもしれない)も欠けてる。だめじゃん。舞台でのアクシデントが数珠つなぎで起き、数珠の大小、一つ一つの衝撃のメリハリがない。たとえば、峯村リエの野原さんは、後半目覚ましくよくなるが、前半こそ「出番だわ」とぱりっとリアルに作らないと、94年版に比べて終景が弱い。鈴木京香がビール缶を潰すとこ、いったん底まで心が落ちないと(そして表現しないと)。中島(藤本隆宏)、浅倉(小澤雄大)、八代(大野泰広)は、存在のリアリティ(どこからきてどこへ行くか)が薄く、のえ(秋元才加)は声が大きすぎ、木戸(ウエンツ瑛士)はふつうすぎる。声の小さい尾木(荻野清子)のシーンでものすごく笑いました。三谷幸喜の代役(スタンド)、どの人の代わりもでき、最強だが、もすこし「決めて」出て来てほしかった。70%切るくらいの役作りだったら、普通そこでケータイ充電しちゃうよ。

東京芸術劇場 プレイハウス 東京芸術祭2022 芸劇オータムセレクション『守銭奴 ザ・マネー・クレイジー』

 稀代のけちんぼうアルパゴン(佐々木蔵之介)は、召使のお仕着せから食べ物からなにもかもにけちけちしている。娘エリーズ(大西礼芳)を金持の老人アンセルム(壤晴彦)に縁付け、自分は息子クレアント(竹内將人)の思う人マリアーヌ(天野はな)を妻にしようと画策する。俳優の喋る台詞の音(おん)が、ものすごくいいよ。全部むねの衷心から声が出て、無理がなく、さらさらしていて、清らかだ。心が透けてる。「見える」。この心の透けてる人たちが、自分の思惑を舞台で吐露し、鎖された家を透かして走り回る。特に娘のエリーズが、金を使わず万事貧血しているような家の中で、成長できず、小さなたて笛をいつも練習している姿が、アルパゴンの一家を象徴していて、可笑しく、かなしい。しかも、シュッと薄紙を刃物で削いだようなセンスだよね。皆窮屈に背を屈めているようなアルパゴン家に対し、「鏡の中から」理想のアンセルム一家が登場して、エリーズやクレアントを解放してくれる。しかし、その救済はアルパゴンには及ばない。アルパゴンは一万エキュの箱を抱えたまま、地の中へ、「見えなく」なるのだ。最初に登場したアルパゴンの下手から中央までの動きが、ほんとうに綺麗だった。揺れる帳のような透明の間仕切りを見ていたせいだろうか、俳優の限界というのは、緊張し張りつめたぎりぎりのものでなく、あの仕切りのように左右に揺れて、そっと可動域を上げていく存在に感じた。すくなくともプルカレーテにおける佐々木は、そんな風に成長しているよ。けど、「音」はいいのに、台詞の中身の詰めがダメ。そこがダメだと、芝居全体の「ケチ」がわからん。もっとお金に執着する。壤晴彦、台詞しっかりね。ヴァレール(加治将樹)の終盤の正体を現す台詞が弱い。自分に確信を持て。限界は、あなたの為にもゆらゆら揺れているのだ。

紀伊國屋ホール 『管理人/THE CARETAKER』

 「背景の壁に窓、その下半分は袋で覆われている。」(喜志哲雄訳)って、どういうことかと思ったら、茶色い麻袋のような布で、窓が隠されているのだった。窓の上の羽目板はむき出しになり、寸胴鍋や脚立や木箱、古くて端が縮れた新聞の束の山、皆ぼろぼろで、ゴミだといえばゴミ、ゴミでないといえば、ゴミでない。ゴミなのかゴミでないのか、それを決めるのは、管理人(ケアテイカー)である。って芝居?

 この芝居には3人の人物が登場する。どこか場末の店で掃除や雑用をして糊口をしのいでいたデイヴィス(イッセー尾形)、そのデイヴィスが店でのトラブルに巻き込まれたのを助けてやって、この「部屋」に連れてきたアストン(入野自由)、アストンに「部屋」の改装を任せ、暮らしを立てさせようとするアストンの弟ミック(木村達成)。

 平面に3つの点があれば、2つの点を結んで、残る一つをその「境界」の外にはじき出すことができる。誰かが誰かの管理人になることで、その二人の関係が、残る一人を排除する。これさ、服装からわかるように、実はアストンが上流、ミックが中流、出自も名前もわからないデイヴィスが下層を表わしているんじゃないかなあ。イッセー尾形、凄みのある好演。でも、ひとりみたいに見える時がある。木村達成は難がない。ちょっと、つまらないかなー。入野自由イッセー尾形の芝居の出来と、自分とを比べちゃいかん。デイヴィスが修道院に靴を貰いに行ったくだりを聴くとき、背中が硬い。背骨柔軟に。「無体な手術をされたせい」とは見えないの。力抜く。聴く。そして病院の事を語るとこは、もっと没入する。この芝居全体が、アストンの手術の事を、どう捉えているか解らない。ドラマ性が薄れてるよ。この部屋自体、芝居自体がゴミかどうか、観客がさいごは問われているんだよね。

東京芸術劇場シアターイースト 二兎社公演46 『歌わせたい男たち』

 「立場」。立場が変わると意見が変わる。そんなのよく見聞きすることだけど、その立場が煮詰められて、のっぴきならない人たちがいる。学校の先生だ。永井愛は国歌斉唱問題の山場を2008年に設定しているけども、私の知ってる限りでは、式を巡る厳しい対立は、90年代の初めにはもう地方でもあったようだよ。

 2008年の国歌斉唱の時の不起立問題の芝居をいま、2022年に劇場に掛けるのは、これが一過性の問題ではない、いまの時代につながる「根」であって、もっと普遍的な演劇でもありますってことかな。私の感想は、(学校の先生って、損してる)という、小市民的なものに始まり、「関ヶ原で官軍相手に戦う」国歌斉唱時に起立しないことを貫く拝島先生(山中崇)へのリスペクト、屋上が「国家」のように学校にのしかかるいびつなセットの天辺で、「内心の自由」についてマイクで叫ぶ与田校長(相島一之)を哀れに思う気持ち、と、飛び石を渡るように忙しく変化するのだった。

 これが時事的なものを通して普遍性を求める劇なのだとしたら、ちょっと問題ある。俳優の誰もが、声を胸より上、高い所から出してる。うわずってる。全てが「立場」であって、その立場から来る狂躁なのだといってるみたいだ。ひとりくらいお腹から声出してもいいじゃないか。それともいない?皆が揺れている?それが日本なの?

 拝島から眼鏡を奪おうとする元シャンソン歌手の音楽教師ミチル(キムラ緑子)の手つきがなまなましく目に残る。すべてがひっかき傷、なま傷のようだ。誰もが傷を負いながら、「屋上」からどんどん圧されていく。山中崇が追いつめられて頬をひきつらせているのがわかり、彼の歌が素直で上手い。ミチルの最後のシャンソン、もうすこし母性的でもいいかも。

恵比寿ガーデンシネマ 『土を喰らう十二ヵ月』

 まず、「一年間かけている」ってことが映画に出てる。高速撮影がちょっと多いけど、いやじゃない。土に埋けた(?)里芋を出す、雪の下からほうれん草を採るところもしっかりリアルで、真っ黒の土をつけた芋を、一つ一つ流しで洗うとか、ほうれん草の根が白くなるまで丁寧に指でこすりながら水(つめたく澄んでいる)で流す、ゆがく、食膳に載せ、食べるまでが一息だ。野菜が熱せられて皿に盛られ、凍えた身体を通ってゆく感じが、観ている方にも伝わってくる。そしてシンプルな料理が、「現代日本の最高の贅沢」感を醸し出してるのだった。あのさ、いいお粥を炊こうと思ったら、「水から30分」とかでなく、直に鍋を見て、お粥の調子を見極めながらが一番たしかじゃない?身体に実感を持つっていうか。それがきちんと表現されている。ここまで、原作に勝ちそうな勢いである。

 よくないのは画面を「持たせる」ために、大きな犬を家に上げて飼っているとこだね。水上勉の前髪ぱらりに匹敵するウィークポイントだ。

 それから、会話の調子に、映画全部に一貫する緊密さが足りない。ツトム(沢田研二)と真知子(松たか子)の最後のシーンが、ぼんやりしたトーンに見えてしまう。

 一番引っかかるのは、食べ物(生きること)と対峙し、日日「たったいま」を生き、「死ぬまで生きる」、執着と放念について、脚本がもひとつありふれているところだ。ぜったいもう一歩深くいけるのに、すべてを「映画」に任してしまってる。ここ、もっと執念深く考えていたらもう、名画になったのにさ!

 沢田研二の表情筋が、ブラシでささっと払ったように浮き出している。大工の火野正平や、写真屋瀧川鯉八)とのやりとりのとこ、もすこし笑わせていいのでは?