下北沢 ザ・スズナリ 劇団東京乾電池公演『十二人の怒れる男』

 あれ宮口精二(太いズボンに目に痛いような白いシャツの50年代)出ないの?的な、全体がセピア――白黒の映画の中へ入ってゆく感じ――の作り。そして、子供であった時より父になってからの人生の方が鮮明な人間の演出だ。冒頭、少年(19歳となってるが――高田ワタリ)の後姿が法――裁き――裁判官と対比され、「大人」「子ども」という台詞が強調される。エッジィなやり取りは丸められ、んーと、例えて言うとフィルムのひとこまを全部切り離して、それぞれの尖った角を丸めまた丹念につないである。父親の中の「しのびない」情を最大限に表現するってことだね。

 このことによって、陪審員のひとりずつの個性は薄くなり、正義を希求し差別を悪(にく)む、市井の人々、何とはなしに雲のようにあたりに漂う、『父』の善が、クリアになった。多数決の度に意見が変わるところとか、こんなに真剣な芝居なのに、なにかかわいく可笑しく見える。陪審員第八号(飯塚三の介)はヒーローでない。漂う善を方向付けるだけだ。劇団でなければできない作劇だねぇー。客席に背を向けっぱなしの俳優までいる。この芝居で一番いいのは幕切れで、あっさりしていて、いやみがない。柄本演出のセンスを知る。

 でもさ、やっぱ各人の個性をもっと打ち出してほしいよ。「大人」と「子ども」も狙ったようにはコントラストがついていないし、役者の見分けが難しいし、何より観ていてはらはらしない。「しのびない」「父」のために、芝居のスリルが犠牲になっているのだ。

 陪審員第三号(谷川昭一朗)の「父のつらさ」の表現はよくできているけど、その「しのびなさ」を際立たせようと、怒りの角がここも丸めてある。ここんとこは、本気だしていかないと、心に来ないのです。

Bunkamuraル・シネマ 『RRR』

 うぉー。頭の中の「プラッシーの戦い」とか「ムガール帝国」とか「セポイの反乱」とかのお勉強が、一撃であっさり四方へぶっ飛んでいく。走る!飛ぶ!苦痛!友情!最初、映画館で予告編を観た時、(どうなのかなあこれ)と思ったのだった。予告の中の英国兵が、あんまり無造作に、明るい感じで「死」を与えられていて、ショックを受けた。これじゃあ善悪二元論のシンプルな愛国映画やん。ちょっとインドの学習しちゃったよ。けど違ったね。これ、人間の自己肯定を扱ってる。自己肯定を阻害する者たちと、闘う話なのだ。たとえばイギリス人たちが、パーティでインド人のアクタル(ビーム=NTR Jr.)とラーマ(ラーム・チャラン)を蔑むとき、二人はダンスをしてみせる。片足を前と後ろに蹴り出し、なかなか地面につけない、切れ味の鋭い、生命力にあふれた踊りだ。蔑む人々をはるかに凌駕し、自分自身であることを朗らかに寿いでいる。あのー、『インドへの道』でフォースターが上品に言っていたのは、インドの人の、抗えない、この魅力の事だったのかもね。

 歴史に題材を採り、超人的な抵抗を扱っているが、決して偏狭ではない。ラーマたちを包囲する兵隊は、英国兵であり、ベトコンに手古摺るアメリカ兵であり、サイドカーを操るドイツ第三帝国であり、日本の軍隊である。でもあんまりそれがはっきりしすぎ。警官のラーマの過去は点描で終わらせるのかと思ったら、インターミッションの後に白熱した描写が続き、A級B級のくくりを越えた!と思った。全篇体に力が入りっぱなしだったけど、ビームがアクタルに変わるシーンが分かりにくく雑。あと、悪役の総督(レイ・スティーヴンソン)と総督夫人(アリソン・ドゥーディ)が、最初は薄くてぼやけてんのに、最後芝居が格あがりしてたね。自己肯定を扱いつつインドじゃ誰も文句のない愛国に着地って、なにか残念だ。

有楽町朝日ホール イッセー尾形一人芝居 『妄ソー劇場・すぺしゃるvol.4』

 会場につくと、イッセー尾形の手になるミニチュアの人形劇場がいくつも展示されている。早めに行った方がいいよ。開場時間も早い。イッセー尾形が作った紙芝居を、実際にこどもたちに見せている映像もある。こどもが茶々をいれるので、ちっとも先へ進まない。イッセー尾形は困ってる。但し映像を観ている大人たちはけっこう笑っていた。

 (イッセー尾形の作った人形ね、あーはいはい)ってなってる自分を発見する。何やらせても上手だね。どの人形にも愛があり(特にゴッホは大好きなんだなと思った)12,3センチのゴッホが自分の絵(部屋)を覗き込んでるのなんかがある。ちいさな照明で二人の人形の後ろに翳を作り、背景に落とし込んでいるのがよかった。すごく上手。いい。でも独立したアート(?)じゃない。この道一本で食べて行けますかときかれたら、ちょっとねーと答える。絵もそうだけどさ、なんか「線の引きよう」が、専門の人に比べると、圧倒的に少ない感じがするんだよね。でも、専門の人と同じ、またはそれ以上のセンスでカバーしているのだ。この人形たちだって、自分のイラストを「そのまま」立体に起こしていて、よくある退屈な人形の、整理されてつるっとした感じから、とても遠い。炬燵から身を乗り出して、腹這いのまま絵を描いている北斎のさるまたも、がさがさした、ざらざらの仕上がりである。んー?してみると今日の舞台は、この人形たちを演じてみせてるのかな?

 ってことならめちゃくちゃ納得する。がさがさの、ざらざらした出来だもの。『詐欺防止留守番電話』でY’s電気の人が訪ねる家はほんとに散らかっていて(ってなにもない、イッセー尾形が作り出している)、観劇の邪魔になるくらいだった。『中華屋のおばちゃん』も『謝罪会見』も『高速道路男』も、ざらざらしてる、それは主にイッセー尾形が線をきちっと引かず、完品になるのを目指してないからだ。「思い出しながら作る過去の作品」ていう完成品である。私は不承知。隅々まで息が通ってるいまの作品が観たいもん。光るグレーのプリーツの服を着た謎のおばさんの『605号室』を初めて観たからか、面白く感じた。夫に死なれたおばさん、そして今の耐え難い空腹。『立体紙芝居』と『没落貴族(斜陽)オーロラ銀座』。『立体紙芝居』について言えば、もう理解するのを諦めました。おもしろい?おもしろいの?この紙芝居で疲れちゃって、オーロラ銀座の熱唱が、うまく頭に入ってきませんよ。

シアタークリエ 『4000マイルズ ~旅立ちの時~』

 構造が、わからねー。これ結局何の話だったか、ちゃんと演出されていない。役者に意図が伝わってないし、役者が分かっていたとしても演じきれてない。『4000マイルズ』、青春ビルドゥングスロマンやん。自転車でアメリカを横断中に、強烈な喪失体験をした若い者が、オブセッションや、子供時代を脱ぎ捨てる話でしょ。芝居の感触、調子に繊細さを欠く。例えば、最初のレオ(岡本圭人)と祖母ヴェラ(高畑淳子)の、ニューヨークでの出会いのシーンには、軽い、なめらかな調子が必要だ。でなきゃ2時間10分、持たないよ。

 岡本圭人、「ぼくの両親は愛し合っていたの?」という台詞が、劇中、ぴかいちに輝いていて美しく、世界に一羽しかいない鳥のようだった。あれはレオの中の少年の素直な声のはず、あの声が出せるのならば、そこを基準にしてすべての台詞のトーンを緩やかなカーブで設定するべきだ。勿論この芝居には原文(英文)があるわけだけど、翻訳された台詞には訳者が探り当てた「譜」が籠められている。まず「譜」が読めんと、話にならないね。もっと演技プランを詰めないとね。レオはケージの鶏になるのを怖れている。そこがあいまい。ヴェラはもう少し面白く、もう少し軽快にしてもいいよ、口の押え方ちょっと考えて。

 アマンダの瀬戸さおりは、「姉さんであって、全く姉さんではない」という枠がはっきりしている。好演。レオの恋人ベック(森川葵)はそこが不可解でやりにくそうだ。「レオにいちいちがっかりされる女の子」?どういうの?どうやら少しぽっちゃりしているらしいということが出てくるけど、キャストが森川葵である以上、森川葵をキャストに選んだ以上、演出家は深く考えて森川と話し合う必要があるんじゃないの。ヴェラとレオのハグシーン、「あっさり」とか「心から」とか、かたちから細かく演じ分けた方がいい。

ユーロスペース 『天上の花』

 破綻なくきちっとできてる。歯車がぴったりとかみ合い、するすると物語は進み、惹きこまれる。

 詩人三好達治東出昌大)は、16年思い続けた、師萩原朔太郎の妹慶子(入山法子)と結婚するため、妻子と離別し、海辺の僻村に疎開する。しかし、三好の思う慶子と、実際の慶子には隔たりがあり、その齟齬に三好は耐えられない。ことあるごとに彼は慶子を殴り、慶子を縛りつけ、手元に置こうとする。「愛している」と言って。

 そもそも、三好の思い、慶子へのこころって、愛なの?これさ、愛というより、「一念」って感じする。一念を愛と言いなすとこがもう、強者の理屈じゃない?強い者の理屈に対して慶子が異議申し立てしてもさ、周りの人が我慢しなさいというとこが、食虫植物に捕まった小さな虫の運命のようにひどい。無力感に目まいした。日本の映画には、腕力で異議申し立てするかんしゃく持ちの女が現れない。かんしゃく持ちの女は、いまだにジョン・ウェインが猫の子みたいに襟上掴んでひきずりまわすモーリーン・オハラのような扱いを受ける。この映画でもそうだ。つまらん。

 東出昌大入山法子有森也実、いずれも集中した演技で見どころが山ほどある。入山が食べ物を口に入れる時の表情は、背景にぽわんとした光の環がいくつも浮かんで見えるようだ。けど、最初のシーンの振り返るとこ、もっときれいに撮れなかったの?何度も撮り直すより、お金をかけ、照明を工夫して、一回撮ったほうがよかったよ。脚本が東出の芝居を邪魔している。「慶子さんとの縁談が破談になってしまう」この台詞要らない。説明。B級。どんなつらい経験も、役者にとっては皆大切なものなのだと、声割れの直った東出を見て思った。詩の朗読をする東出は拙い。詩の姿が見えてない。歯車は回り、運命を象るが、その歯車は古く、錆びているねぇ。

WHITE CINE QUINTO 『ミセス・ハリス、パリへ行く』

 第二次大戦後、従軍したまま帰還しない行方不明の夫を待ちながら、ミセス・ハリス(エイダ=レスリー・マンヴィル)は家政婦として働く。ある日仕事先でディオールの美しいドレスを見たミセス・ハリスは、お金を貯め、パリのクリスチャン・ディオールへ、オートクチュールのドレスを作りに出かけるのであった。パリの凱旋門、パリのエッフェル塔が実に額面通り、絵葉書のように現れ、これ、ステレオタイプじゃないのかいと心配になる。そっ、この映画はゆるい。けど、ゆるくしないと映画に漂うふんわりした詩情(ディオールのメゾンのらせん階段で、女の人の運ぶ白いチュール)が失われる。うう、むずかしい所だね。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』みたいに、世知辛い話(金=幸せ)にならないよう、精いっぱい階級間の差別なんかが薄くしてあるのだ。コレクションの最中に、ミセス・ハリスと話しながら、ぐっと頭を後ろにそらす侯爵(ランベール・ウィルソン)の仕草が、こっちの胸を暗くするのに十分だけどさ。あとドレスを購う「お金」というものはむき出しでした。出てくる人は皆エッフェル塔凱旋門と同じ、ありきたりの、よくある造型だし、新味もない。けれども、ここには小さい奇跡みたいに、「ディオールの服」にこもるうっとりするような魔法が映りこんでいる。絹のリボンを切る鋏のかすかな切れ味の音、ミセス・ハリスが(市井の私たちが)幾度も箪笥を開けて、いつまでも触っていたいと願うこみいった細工のドレスの飾り。美しいものを所有し、着る喜びが、画面のエイダと一緒に共有できる。ミセス・ハリスが故郷で晴れ姿を飾る軍人会が地味なあまりに苦味もあるのだが(ちょっと泣いた)そこもふんわりさせてある。メゾンの支配人マダム・コルベール(イザベル・ユペール)は裏と表のあるいい役だけど表の「エッフェル塔感」が拙いよ。もっといいシーン思いつかないの?

TOHO CINEMAS シャンテ 『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』

 「かわいい猫の絵を一生描き続けた男」「愛妻と死に別れたが一生愛していた男」と、なんか、ファンシーでラブリーな映画を想像しちゃうけど、全然違う。これ、「生きるのが下手な男がどうやって世界とコミットしたか」という剛速球映画なのだ。妻(エミリー=クレア・フォイ)は夫(ルイス=ベネディクト・カンバーバッチ)に、あなたはプリズムよというが、彼の絵、彼の描き続ける猫の絵こそが、ヴィクトリア朝の世界を分光し、驚くべき速度、驚くべき量で世上を賑わすのである。

 5人の姉妹と母を養わなければならない経済的苦境、妻の死を越えて、ルイスは猫を描く。ふつりあいとされる結婚は、きっと家族から離れたかったからでもあり、妹との不和は、シェイクスピアの妹のように埋もれるしかない妹たちの怨みがこもっているはず。ここ、もう少し足したらいいのにねー。ベネディクト・カンバーバッチは緩みなく演じ、えっすごいなと(特に妻の死を瞬時に、画面を切り替えることなく眼差しで表現するとこ)心から思うんだけど、ここがあんまり凄いんで、他のシーンが、ああそうですよねーとなった。もっとできるよね?できる。あとさ、アメリカ帰りに錯乱するシーン、ずーっと(行きはどうだったのかなあ船だけど)とちらちら考えた。

 中国人やインド人がまるでいなかったように撮られてきた時代だが、この映画はごく当たり前に彼らを存在させ、役をふる。ルイスと重要な会話を交わすダン・ライダー(アディール・アクタル)、いいんだけど、アクタルはどうやら繊細な人で、自分の台詞(いいせりふだ。倒れた何百枚ものドミノの列を、反対側に念力で倒すみたいに、映画の景色が変わる)を、泣かないように、きちんと言おうとしている緊張が、映りこんでいるよ。