ヒューマントラストシネマ有楽町 『勝手にしやがれ』

 映画には性別があるのではとうっすら思う時もあったけど、この、ゴダールの『勝手にしやがれ』という映画ほど、等身大の「男」を感じさせるものはない。「60年前の巷の男」―カメラ―監督―「映画それ自体」と化しているのだ。これ、まるでゴダールの私映画のよう。正直でよいともいえるが、やっぱし、所詮、60年前の男。憧れはハンフリー・ボガード(立ちこめる煙は尊敬の振り香炉?)で、眩しい太陽の下警官を殺し、きっとアルジェリア戦争で心が凍っている。女の躰を触ってはぴしゃっと張り倒され、元カノの財布をあさり、次から次へといい車を盗む。

 なにかあるとミシェル(ジャン・ポール・ベルモンド)は唇をくるりと指でたどる。そのしぐさのわけはなかなか明かされないが、触る様子はナプキンで口を拭っているみたいだ。身体の中の連続性が、ここで一旦途絶する。カット。こうして何度でも「始める」人たちは、自分のことが分からない。かと思えば他のもの、女や銃とた易く接続し、思ってもいない所へ運ばれていく。っていうような彼らは愛についても確実にはわからないのだ。信じられないから。この映画は愛の不全を語る。ジーン・セバーグは可愛く美しく、「ヘラルド・トリビューン」のしろい宣伝セーターがとても似合う。ミシェルに勝手に胸を触られるのが観ていてとても不愉快。彼女の英語の発音が、勢いあるアイラインの端っこみたいに溌剌としていて心地よい。映画の斬新さは50年の間に擦り減ってしまったのか、(あたしにはとうてい『勝手にしやがれ』語れないな)と思うくらい、普通に観てしまった。大体、私の田舎には昔同じ名前の飲み屋があって、お兄さんお姉さんたちが通っていた。皆崇めるようにゴダールについて話していたものだ。その雰囲気がさー、ほんとつらかったということを思いだした。だって私、観てなかったんだもん。